バロンドール「モドリッチ」のすごさの原点(後)(石田純一)

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石田純一の「これだけ言わせて!」 第17回

 2018年のバロンドールを受賞し、FIFAワールドカップ・ロシア大会の最優秀選手に贈られるゴールデンボール賞、FIFAの最優秀選手賞と併せ、サッカーの権威ある個人賞で3冠を達成したクロアチア代表のMF、ルカ・モドリッチ。前回、彼のプレーの原点が、故郷を焼け出された駐車場でのボール蹴りにあった、と書いたけれど、彼が少年時代、どんなに壮絶な環境ですごしたか、平和ボケした僕らには想像がおよばない。

 現在33歳のモドリッチが子供だった1990年代、連邦国家だった旧ユーゴスラビアは内戦に見舞われ、いまではセルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア共和国、スロベニア、モンテネグロ、そしてコソボの7カ国に解体されている。実は、旧ユーゴスラビアはサッカー強国だった。1990年のワールドカップ・イタリア大会で、世界一のサッカーをすると言われていたのが、イビチャ・オシム監督率いるユーゴスラビア代表で、このとき優勝したドイツのフランツ・ベッケンバウアー監督も、「最高のチームはユーゴスラビア」だと断言してはばからなかったほどだ。

 でも、そのころすでに内戦は始まっていて、「あいつの国のヤツに妹が殺された」といった話が、ユーゴ代表のチーム内に不協和音を呼んでいたのだ。

 余談だが、僕はオシム監督が大好きだ。2006年のワールドカップ・ドイツ大会で、ジーコ監督率いる日本代表が1分2敗したとき、JFA(日本サッカー協会)会長だった川淵三郎さんに、「ジェフ市原の監督をしているオシムが日本にいる間に、絶対に日本代表監督にしてください。世界でもベスト3に入る監督ですよ」と伝えた。その影響かどうかわからないが、それまで日本代表の監督候補にあまり名前が挙がっていなかったオシムが、日本代表監督になった。病気でやむなく辞めたのが残念だったが、哲学があり、言葉に真の力があって、遠藤保仁や長谷部誠が日本の中心選手としてやっていけたのは、オシムのおかげだ。

 さて、旧ユーゴは戦争で散り散りになり、モドリッチも焼け出され、駐車場でボール蹴りを始めたというわけなのだ。

 そうした生い立ちが影響してのことだと思う。モドリッチはいまもボランティアやチャリティ活動に熱心に取り組んでいる。そのうえプレーが非常に献身的だ。33歳にもなって世界一のレアル・マドリードの第一線で活躍できているのが奇跡的だが、それを支えているのが、彼のすさまじい走りである。33歳なのに、彼が1試合で一番走っているほどなのだ。2018年のワールドカップ・ロシア大会は決勝を生で観戦したが、クロアチアはモドリッチを中心に、人口が十数倍のフランスと互角以上の戦いをした。決勝の対戦国フランスにくらべ、準決勝から決勝までの間が1日短かったのが悔やまれる。

 バロンドールを受賞した際のスピーチも素晴らしかった。同郷のオシムにも哲学があったが、モドリッチにもある。「この10年、バロンドールに値するイニエスタ、シャビ、スナイデルといった優秀な選手がいたが、受賞できなかった。僕は彼らが残念だった分も一緒に受賞したと思っている。今回の受賞はサッカーの勝利だ」。だいたいそんな内容で、こんなふうに締めた。「疎開先でサッカーを始めたとき、僕にはビッグクラブでチャンピオンになるという夢があったが、バロンドールは考えもしなかった」。

 個人にとって最高に栄誉の場で、他人のことに触れるなど、なかなかできることではない。モドリッチはいつも謙虚だが、最高のことを成し遂げるのに簡単なことなど一つもない。若いころの苦しみが、いまの彼の余裕につながっているのだろう。

石田純一(いしだ・じゅんいち)
1954年生まれ。東京都出身。ドラマ・バラエティを中心に幅広く活動中。妻でプロゴルファーの東尾理子さんとの間には、12年に誕生した理汰郎くんと2人の女児がいる。元プロ野球選手の東尾修さんは義父にあたる。

2018年12月27日掲載

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