『素顔のヴィルトゥオーソ』第3回 ヴァイオリニスト木嶋真優
日本とヨーロッパを行き来しながらソリストとして活躍している木嶋真優さんは、次代を担う若きヴァイオリニストだ。
世界的な名教師ザハール・ブロン(1947~)に才能を見出され、14歳で渡独。現代を代表するチェリスト兼指揮者のムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927~2007)に引き合わされ、彼をして「世界で最も優れた若手ヴァイオリニスト」と言わしめた。
ケルン音楽大学と同大学院を首席で卒業した現在は、ソリストとしての活動に軸足を置きつつ、オーケストラとの共演や音楽祭への出演、ロストロポーヴィチ氏の教えだった楽曲のプロデュースなどを行っている。
「10年を経てようやく言われたことをやっている」
そう言って本人は笑う。
「天才少女」から挫折を乗り越え「実力派」へと脱皮した彼女の軌跡を追った。
ブロンとの出会い
兵庫県神戸市に生まれた木嶋さんがヴァイオリンを始めたのは、3歳半の時。
「ピアノニストの母が、私にも音楽に触れる機会をつくろうと思ったらしいのですが、ピアノを弾くにはまだ手が小さすぎた。それで小さいサイズのあるヴァイオリンにしたと聞いています」
習い始めて1年も経たない頃、子供向けコンクールで金賞に輝いた。しかも4、5歳と3年連続して優勝したという。
「子供の頃は、結果が出れば単純に嬉しいでしょ。それでヴァイオリンを弾くのが楽しくて楽しくて仕方がなかったのです。小学校受験をするにあたってヴァイオリンの他にピアノ、バレエ、お絵かき、塾といろいろな習い事をしていましたが、ヴァイオリンが1番好きでしたね。はじめた頃から、将来はヴァイオリニストになりたいと思っていたくらい。コンサートに行く度に、“いつか私もあの舞台に立ちたい”と思ったことを、今でもよく覚えています」
転機が訪れたのは、中学生の頃。のちに生涯の「師」と仰ぐことになるブロンと出会った。
最初のレッスンで直感
「先生は1999年から2002年まで年に3回、神奈川横浜市で子供向けのヴァイオリンセミナーを開いていました。公開レッスンをして一緒にコンサートを開くというもので、私もメンバーに選ばれたのですが、最初のレッスンの時に、“この先生についていきたい!”と直感したのです。短時間で先生の要求に応えないといけないので、即行性や対応力、物怖じしない性格が求められる。それが私のフィーリングとピタッと合った感じがしました」
さらに翌2000年9月、若手ヴァイオリニストの登竜門と言われる「ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール・ジュニア部門」で、最高位(1位なしの2位)を受賞。ブロンが拠点を置くドイツ・ケルンへの留学が決まり、木嶋さんの人生は一気に動き出す。
「ブロン先生はケルン音楽大学やロシアのノヴォシビルスク音楽院、スペインのソフィア王妃音楽大学など、ヨーロッパ各地の大学で教えていました。私は前々から先生の指導を受けるために留学したいと考えていたのですが、両親から“せめて日本で義務教育を終えてから”と反対されていました。そんな中、このコンクールで最高位をいただいたことで、先生が両親に“中学卒業を待たずに留学した方がいい”と勧めてくださり、ついに両親の許しが出たのです」
母と2人でケルンに渡り、ブロンとの“格闘”が始まった。
キラ星のごとき門下生たち
1947年、ソ連西部のウラリスク(現カザフスタンのオラル)に生まれたザハール・ブロンは、フランスのパリ音楽院、アメリカのジュリアード音楽院と並んで世界3大音楽院と評されるモスクワ音楽院などでヴァイオリンを学び、ソリストとしての地歩を固めていく。指導者としての名声を高めるようになったのは、ノヴォシビルスク音楽院で教鞭をとりはじめた1970年代後半のこと。この学び舎から多くの優秀なヴァイオリニストが育ち、いつしかブロンは“世界的な名教師”として知られるようになる。
日本にも教え子が多く、木嶋さんの他、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを務めている樫本大進、2007年にチャイコフスキー国際コンクールで優勝した神尾真由子、最近では先の「ヴィエニャフスキ」を史上最年少で制した服部百音などがいる。
日本でも人気の高いロシアのワディム・レーピンも樫本と同時期の門下生で、今年6月には、レーピンが芸術監督を務める「トランス=シベリア芸術祭」の企画として70歳を迎えた師ブロンを日本に招聘し、『スーパー☆ヴァイオリニスト夢の饗宴』と題し、樫本、服部らも出演した師の記念コンサートが開催された。木嶋さんは同じタイミングで他国での演奏会があり、残念ながら参加できなかった。
ケルンでのブロンの指導はどんなものだったのか。
「凝縮された時間の中での彼だけのメソッドがあり、それがあまりにも濃厚で強烈なのです。ケルン音楽大学でプライベートレッスンを受ける生徒が私を含めて十数人いて、1人ずつレッスンを受けていくのですが、時間が決まっていないので大変でした。レッスンはロシア語で、私は当初、ロシア語もドイツ語も英語も話せなかったので、言語はまったく分かりませんでした。それでも先生のレッスンを受けると、徐々に内面をこじ開けられます。もちろん、人それぞれ性格が違うので、1回のレッスンが終わっても気持ちがオープンにならない生徒もいますが、私だけでなく、どの生徒のレッスンを見ても、必ず見違えるほどよくなっていました」
1年の大半はブロンと旅
教室となっていたケルン音楽大学の214号室の前は、常にレッスンを待つ生徒で溢れていた。
「アポイントを入れていなくても、生徒がレッスンを希望すると“ちょっと待っていなさい”と言うのがブロン先生。もしかしたら空いた時間に見てもらえるかもしれないので、私たちのようなプライベートレッスンの生徒だけでなく、大学の受講生も押しかけます。それぞれ待っている間に廊下やそこかしこで練習するので、ミュートをつけていてもうるさいのでしょう。他の教室から苦情が来て、お手洗いで練習したこともあります」
様々な大学で教えているブロンにつき従い、ケルンだけではなくヨーロッパ各地を一緒に旅しながらレッスンを受けた。
「当時は先生のレッスンを毎日受けていた生徒が私も含めて3~4人いて、彼らと家族が先生に帯同するのです。私は母と一緒に回り、1年365日のうち360日は先生のレッスンを受けていました。門下生の中でも最年少だったので、素晴らしい先輩たちの間で勉強できたこはとても大きな経験でした」
ブロンと訪れた土地の中で、最も木嶋さんの印象に残っているのが、シベリアの中心都市ノヴォシビルスク。ブロンが40年来教鞭をとり続けている音楽院のある町だ。
「毎年、ここで年越しをしていたこともあり、1年の3分の1くらいはブロン先生とノヴォシビルスクにいたように思います。4~5年前に訪れたらすっかり都会になっていましたが、当時はまだソ連の匂いが残っていて、しかもマイナス25~30度という極寒のシベリア。私には大きなカルチャーショックでした。いま、どんな曲を弾きたいか聞かれると、ロシアの作曲家がパッと思い浮かぶのは、この時の影響かもしれません」
暴走していた反抗期
ケルンではドイツ語を猛勉強しながら現地の高校に通っていた木嶋さん。授業が終わるとケルン音楽大学に直行してレッスンを受け、さらに宿題をしたり予習をしたりと、大忙しだった。
多感な十代の女の子が父親代わりの師に反発することがあったのも、仕方のないことだったかもしれない。
「私は反抗期が凄くて、かなり暴走していましたね(笑)」
と振り返る。
「レッスンで注意されたことが翌日に直っていないと怒られるわけですが、一気にいろいろなことを言われるので、1日ではとてもじゃないけれど修正できない。時には逃げ出したくなるし、友達とも遊びたい。そこで、自分で先生に電話をかけてキャンセルしたり、214号室の前まで行って並んでいる生徒に声をかけ、勝手にレッスンを譲ったりしていました」
もちろん、あとで叱咤が飛ぶが、お構いなし。時にはレッスン中に癇癪を起こすこともあった。
「先生に言われたことに対応できないと自分でも嫌になってきてしまい、お尻を向けて弾いたこともあれば、“もうやめます”と逆ギレして、ヴァイオリンを片付けて帰ったこともあります。あるいはレッスンが始まるなり、“その時計どこのですか?”“そのスーツ新しいですよね?”と、どうでもいい話をして、レッスン時間を短くしようとしたことも。そんなことをする生徒は他にいなかったので、“お前ほど手こずった生徒はいない”と、今でも先生に言われます」
今思えばオーディション
手のかかる子ほど可愛いもの。ブロンは愛弟子の飛躍を後押しした。木嶋さんを「優秀な生徒」としてロストロポーヴィチに紹介し、華々しいコンサートデビューを飾らせたのである。
「ある時、ブロン先生から“ロストロポーヴィチさんに会う機会をつくったから、4つの協奏曲を準備していこう”と言われたのです。4曲のどの部分を弾くよう求められるか分からないので、事前にみっちり練習し、ウィーンでロストロポーヴィチさんに会いました。確かコンサートのリハーサルの合間だったと思います。10分程の短い時間でしたが、今思えばオーディションだったのでしょう。その直後に、ロストロポーヴィチさんが指揮者を務めるコンサートへの出演が一気に決まったのです」
2005年2月から7月まで、「サンタ・チェチーリア国立管弦楽団」(イタリア・ローマ)、「ワシントン・ナショナル交響楽団」(アメリカ・ワシントンD.C.)、「ロンドン交響楽団」(イギリス・ロンドン)、「バイエルン放送交響楽団」(ドイツ・ミュンヘン)という世界の名だたるオーケストラと共演。
ドイツでは、「カラヤンがアンネ=ゾフィー・ムターを世界的に注目させたように、ロストロポーヴィチは木嶋真優を世に出した」と評された。14歳で「クラシックの帝王」ことヘルベルト・フォン・カラヤンと共演し、一気にスターダムを駆け上がったムターは、「ヴァイオリンの女王」と評される。小さい頃から彼女に憧れていた木嶋さんにとっては、この上ない賛辞だっただろう。
挑戦したショスタコーヴィチ
「コンサート出演に先立ち、ロストロポーヴィチさんから弾きたい曲を聞かれ、リストを出したんですね。それをもとに演目が決まっていったのですが、ロンドン公演だけ決まりませんでした。そうしたら、ロストロポーヴィチさんがショスタコーヴィチを弾いたらどうか、と言う。私は反対しました。ショスタコーヴィチはそれまでのレパートリーになかったばかりか、弾いたことさえありませんでした。そのうえ、自分のものにするには、ものすごく深く勉強しないといけない。10代の私には自信がなかったのです。それでもロストロポーヴィチさんは、“私が教えるからこれをやろう”と。それでヴァイオリン協奏曲第1番に挑戦したのです」
とりわけ交響曲に秀でた20世紀を代表するソ連の作曲家、ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906~75)。実はソ連のバクー(現アゼルバイジャンの首都)に生まれたロストロポーヴィチはモスクワ音楽院でショスタコーヴィチに師事し、アメリカに亡命後も交流。ともに作曲したり、ショスタコーヴィチの曲を初演したこともあった。
「よくロストロポーヴィチさんから“新しい作曲家と一緒に曲をつくりなさい”“これから音楽家としての幅を広げていきたいなら、曲の創作段階から関わることを考えなさい”と言われました。その頃はピンときませんでしたが、いまでは納得できる。私は3年前から曲のプロデュースをしていて、10年がかりでようやくロストロポーヴィチさんの指導に従っているのですが、確かに音楽家としての新しい可能性を感じます。あの時にショスタコーヴィチに初挑戦した経験は、ずっと私の糧になっている」
一緒に弾くだけで自然と学べる
ロストロポーヴィチの指導はブロンとは全く違うものだった。
「ブロン先生は“さっき指のここを使っていたけど、そうじゃなくて、こうだよね”という細かい指示が多い。ヴァイオリンを弾くことに関してのテクニックや舞台に臨むときの心構えなど、基本的なことを教えてくださいます。でも、ロストロポーヴィチさんはテクニックについては何も言いません。細かいことも一切、言わない。ブロン先生から教えていただいていた私の中の“ブロン先生の世界”というものがある。それを広げてくれたのが、ロストロポーヴィチさんです。不思議なことに、彼に寄り添う形で一緒に弾くだけで、自然と学んでいる。そうなるべくして、そうなる。リハーサルやコンサートを重ねるごとに大変多くのことを学ばせていただきました」
これほど偉大なマエストロにつくことに緊張はなかったのだろうか。
「ロストロポーヴィチさんだけでなくブロン先生の前でも、緊張したという記憶がありません。ある年齢ならではの勢いってありますよね。現実を分かっていない頃がいちばん強い。若い子がコンクールで賞を獲る理由がすごくよく分かります。若い時だけの勢いや速さ、華やかさ、ほんの一瞬の若いながらの輝きというのがある。私もそういう時期だったのだと思います」
当時の彼女は、まさに怖いモノ知らず。
「コンクールでもコンサートでも、緊張しないばかりか、本番で練習よりうまく弾けなかったためしがありませんでした。ベストは常に舞台の上だった。練習で1度もうまくいかなかったところが、舞台でうまくいくのが当たり前だったのです」
抱き始めたコンクールへの違和感
しかし、これまで数々の天才少年少女が「実力派」に脱皮する過程で経験してきたであろう試練に、木嶋さんも直面した。
「誰もがある時から変わっていきます。私はいま、こんなに凄い人と一緒に演奏しているのか、という現実が分かってくると、同時にプレッシャーものしかかってくる。そういう邪念が入ってくると、膨らむものもありますが、弱点にもなる」
コンクールでもコンサートでも緊張するようになり、コンクールについては疑問を感じるようになったという。
「若い頃はコンクールで1位になったら素直に嬉しかったですし、結果を残したいという一心で臨めましたが、いろいろな人と比較され、順位をつけるという本来の芸術からはかけ離れた視点で見られることに、だんだん違和感を抱くようになってきたのです。そもそも音楽は順位をつけるようなものではないのではないか、あの作曲家とこの作曲家のどちらが好きかと聞かれても答えられないのに、それぞれ好みの違う生身の人間にジャッジされ、点数化され、結果を残すなんて不可能に近いのではないか、と。それでもコンクールに出て結果が出なければ、自分が全否定されたような気持ちになってしまうわけですが、結果に左右されるのってどうなんだろう、と思ってしまった」
そう思うようになった途端、本番に弱くなった。
「やはり結果を残したい、1位になりたいという強い思いで臨まないと、ちょっとした疑問が弱さとして出てしまいます。結果、うまくいかないことが2~3回続き、しばらく出るのをやめたのです。コンクールで結果を残し、ゼロからコンサート活動を始めようとしているわけではなかったので、自分にとって必ずしも重要ではないだろう、と。代わりにコンサート活動を広げ、1つ1ついいコンサートを積み重ねていこうと決めました」
最後のコンクールで優勝
2012年にケルン音楽大学を、2015年に同大学院をいずれも首席で卒業し、ソリストとして本格始動した木嶋さん。
リサイタルのみならず、国内外のオーケストラとの共演、室内楽への挑戦、CDのレコーディング、NHK大河ドラマ『平清盛』の音楽に参加したりと、精力的に活動を続けた。
だが、やはり後ろ髪を引かれるものがあった。
「これから長い音楽人生を歩んでいく中で、後味の悪いコンクールの終わり方では嫌だなという思いが残っていました。結果に繋がるかどうかは別として、自分の納得できる演奏をして終わりにしたいな、と」
そこで最後の挑戦と決めて出場したのが、2016年秋の第1回「上海アイザック・スターン国際ヴァイオリン・コンクール」である。復帰戦の結果は、なんと優勝。“最後にして最大”の勝利だった。
「もちろん不満点はありましたが、自分の演奏はできたと感じた。それが結果に繋がったのは、本当に大きかった」
“今日のあの一音が忘れられない”
これからの目標を聞くと、「リスクを取る」という意外な返事が返ってきた。
「小さい頃からヴァイオリンをやっていると、何回も何回も同じ曲を弾きます。自分のスタイルもだんだん確立されてくるし、ある程度の演奏をキープできるようにもなる。そのスタイルを続けていれば、安定するし、楽ですよね。その反面、最初からあらすじがすべて見えてしまうので、その曲をはじめて弾いた時のような新鮮な気持ちや驚き、ドキドキ感が失われてしまいがち。そのドキドキ感を忘れていないように弾くのは、簡単ではありませんが、私は常に新鮮な気持ちで臨みたいのです」
演奏家にとっても観客にとっても一期一会のコンサート。CDもレコードもなかった時代は、それこそが音楽だったはず。
「コンサートを聴きに来てくださった方にとって、“今日のあの一音が忘れられない”“あのフレーズが忘れられない”というものがないと、手ぶらで帰ることになる。“あれもこれも良かったね”と言いつつ、食事をしたら忘れてしまうような内容では実りがないと思うのです。ましてや、いつも同じ演奏ならCDを聞けば済むわけで、何度もコンサートに足を運んでいただく意味がありません。“今日はあの時のあの音を聴くために来たんだね”と思っていただけるようなコンサートを重ねていけたらいいなと思います」
「音を楽しむ」という原点に立ち戻った「実力派」の進化は止まらない。
【木嶋真優さんテレビ出演】
■番組:BSTBS『#ストイック女子』
■放送日時:12月19日(水)22:00~22:54
■詳細:番組公式HP
【コンサート情報】
■会場:愛知県芸術劇場コンサートホール(名古屋市)
■日時:2019年1月3日(木)17:00開演
■問合:NHKプラネット中部 / TEL.052-952-7381
※上記以外の予定はこちらから。「ジャパン・アーツ」木嶋真優サイト