姑の本音を自然に代弁「赤木春恵さん」死線を越えた覚悟

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 葬儀・告別式には、里見浩太朗や角野卓造、武田鉄也らお馴染みの役者仲間が出席したと伝えられる。赤木春恵さんの役者人生を、週刊新潮のコラム「墓碑銘」から振り返る。

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 役者にとって、作品と役柄で自然と記憶されるのは名誉なことである。

 赤木春恵さん(本名・小田章子(あやこ))もそのひとりだ。1990年に始まったテレビドラマ「渡る世間は鬼ばかり」で中華料理店「幸楽」の大女将を好演。泉ピン子さん演じる嫁と激突する姑の演技は見せ場だった。

 脚本家の橋田壽賀子さんは振り返る。

「姑が嫁にただ意地悪では、見ていて不快になってしまいます。姑は厳しい中に筋が通っていて嫁のためを思っているのです。それを伝えるのは難しい。それでも赤木さん自身が心の温かい人で、厳しさと優しさを同時に表現できたのですね。私は脚本を書くまでで、演じ方に注文はつけませんでした。脚本をどう解釈して演じてくれるかを楽しみにして、番組を見ていました」

 当の赤木さんはおおらかで、もめ事が苦手だった。

「戦争を思えば、今の苦労なんて苦労ではない。怖いものはないと話していました。赤木さんは私より1歳年上。私は人づきあいが得意ではないのですが、お互い気を遣わずに会える数少ない人でした。過去にこだわらず、感謝を忘れないさわやかな人です」(橋田さん)

 24年、満洲生まれ。父親は満鉄病院の医師だったが早逝。母親と帰国し、40年に松竹に入る。森光子さんとはこの時期からの盟友だ。45年に満洲に渡り、兄が設立した劇団で慰問巡業。敗戦をハルビンで迎えた。

『昭和二十年夏、女たちの戦争』を著したノンフィクション作家の梯(かけはし)久美子さんは言う。

「お話を伺った時、赤木さんは80代半ばでしたが、人名や地名を一度も言い淀みませんでした。ソ連兵から劇団仲間を守るため、お婆さんのメークをして難を逃れたことや病で死線をさまよった姿が、そのまま浮かんできました。歴史の証人としても貴重な存在です」

 46年10月に引き揚げ。老け役や敵役も厭わなかった。

「小さな役でも誠実に演じて重宝された。片岡千恵蔵のようなスターからも一目置かれていたほどです」(映画評論家の白井佳夫さん)

 森繁久彌さんに請われて、59年には自由劇団に参加。

 有名になったのは40代の後半と遅咲きである。

 79年の「3年B組金八先生」では校長先生の役。役柄なのに講演依頼が続々と舞い込み、戸惑ったという。橋田さんが脚本を手がけたNHK大河ドラマ「おんな太閤記」(81年)、連続テレビ小説「おしん」(83~84年)でも期待に応え、人気者に。

「秀吉が天下人になろうが、たわけと叱ったりと、母と子の関係は変わらない様子や土くさい感じがよく出ていました。おしんでは、伊勢で魚の行商を教える役です。静かな愛情が伝わってきました」(橋田さん)

「渡る世間~」の姑としてのセリフは、自分で言えないことを代弁してくれたと反響を呼ぶ。長いセリフは役の内面を掘り下げて性根をつかんで憶えたという。まさに役を生きていたのだ。

 80代半ばを越えても舞台で活躍、2013年公開の映画「ペコロスの母に会いに行く」(森崎東(あずま)監督)では認知症の母親を演じる。撮影時に88歳で、世界最高齢での映画初主演女優としてギネス記録に認定された。

 東映の映画プロデューサー、小田賢五郎さんとの良縁に恵まれた。夫の母親と同居することはなく、自身に嫁姑問題は起きていない。家では片付け魔だったとか。

 長女の泉さんは一時期、女優になった後、赤木さんの活動を支え、夫の野杁(のいり)和俊さんが所属事務所の社長。孫にあたる野杁俊希(としき)さんは俳優として活躍中だ。

 15年に大腿骨を骨折して以来、表舞台から遠ざかる。

 この1カ月ほど自然と衰え、11月29日に心不全のため、94歳で逝去。

 葬儀委員長は「渡る世間~」のプロデューサーで赤木さんより2歳年下の石井ふく子さん。番組の仲間は家族同然になっていた。

週刊新潮 2018年12月13日号掲載

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