浜崎あゆみ 宇多田カバーで見せた歌姫の自意識と平成の終わり

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 平成の歌姫、といえば誰か。安室奈美恵という人もいれば、宇多田ヒカルという人もいるだろう。椎名林檎も挙げられるかもしれない。はたまた、賛否両論あれど、浜崎あゆみという答えも一定の支持は得られるのではないだろうか。

 1998年にデビュー後、若い女性からの絶大な人気を誇ったあゆ。SNSの大流行で「自意識」があふれかえる世の中になったが、この「自意識」をビジネスとして成功させた先駆けが彼女だったのではないか。自身のビジュアルを前面に押し出したアートワークやファッション、恋愛に自分語り。音楽だけでなく、ふだんの自分と地続きの姿を見せることで人気を得た人だ。

 よく女性歌手は、他者に徹してエンターテイメントを貫く、とうタイプと、自身を切り売りして芸能界を生き抜く、という2タイプいる。安室奈美恵や椎名林檎はまさに前者で、ステージの私と普段の私は別物、という言い方をよくしている。たとえば椎名は実生活で略奪愛報道を多くされているが、音楽家としての人気にヒビは入らない。

 でも浜崎は後者である。本人は過去、「表舞台に出るのは“浜崎あゆみ”。だけど歌を作るのは“あゆ”」とドキュメンタリーで語っていたものの、安室らと比べるとプライベートの影響が音楽にも出るタイプのように思える。だからこそ、恋愛事情やプライベートの振る舞いが人気と連動してしまう。暮らしの乱れは歌の乱れ。歌の乱れは人気の乱れ。生活指導みたいだが、そういう事態にここ最近陥り続けているのではないだろうか。

 自意識の時代は飽和点を迎え、うわべのきらびやかさだけでなく、説得力やストーリーが必要とされるようになった。安室ちゃんで言えば、MC抜きで息ひとつ乱さず高レベルのダンスを踊り続けるストイックなプロ意識とか、宇多田ならバイリンガルという素地と早熟な音楽的才能とか、椎名ならケレン味と職人芸のバランスで変幻自在のステージングを見せるカリスマ性とか。彼女らに比べると、確かに浜崎あゆみは分が悪い。体型の変化を強調するような衣装に、全盛期に及ばない歌唱力。痛々しい自撮りや加工、思わせぶりなポエムや男性の影を批判する声は多い。また浜崎の歌い方はある頃から、妙にビブラートを利かせるような歌い方にシフトした。やはりそこにも、私はアイドルではなく、アーティストなの。と言わんばかりの浜崎の自意識を感じ、他人ながら気恥ずかしいものを感じたのを覚えている。結果として、彼女の歌唱力を賛美する声よりも、浜崎のモノマネ芸人が増えただけだったように思う。あふれだす違和感にモノマネできる金脈が見つかったということだったのだろう。

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