「2046年」に消える「最後の香港」
真夜中の海岸で、ゆるやかに歌いながら踊る少女。それを見つめる旅人の男――水上家屋が並ぶ香港の“最後の”漁村を舞台に、2人の出会いと別れ、そして少女の成長を描き出した映画『宵闇真珠』(原題『白色女孩』・英題『THE WHITE GIRL』、キノフィルムズ配給)が、12月15日から、シアター・イメージフォーラムほか全国で順次公開される。
名カメラマンとして知られるクリストファー・ドイル撮影監督と共同で本作品を演出したのが、この作品が長編映画監督デビュー作となる、香港出身のジェニー・シュン監督だ。監督に、この作品に込めた思いについて聞いた。
シンプルなラブストーリー
この映画の少女=ホワイトガール(アンジェラ・ユン)は、実はウソだったのですが、親から太陽光アレルギーがあると言われていて、周囲からは、あなたはここに属さない人間だと決めつけられていました。ところが、旅人の異邦人(オダギリジョー)と出会うことで、だんだん変わっていく。
異邦人が少女にした質問は、「あなたはいったいどういう人ですか?」というものでした。実は少女も、周囲から異邦人扱いされていましたから、こんなことを問われることがなかった。
この質問から、少女と異邦人の関係が始まるのですが、私は「愛」というものがとても難しいものだと思っていますので、この映画の中では相手がこちらを見ている、こちらが相手を見ているといったシンプルなところから愛が生まれるということを描こうとしました。
だから2人は寝ることはおろか、手すら握りません。その意味では一般的な愛情表現を一切使わず、ただお互いを見つめ合うことで描写しました。
少女には太陽光アレルギーがあるということになっているため、もちろん表には出ませんし、家には鏡もありません。だから光もなく、自分を見ることも知ることもできない女性なんです。周りからは「幽霊」とまで言われていました。
ところが、異邦人が住み着く廃墟で初めて鏡の前に立ちました。そして自分を見つめることができた。異邦人と鏡を通して見つめ合うこともできた。ここから、少女は変わっていくのです。
人は成長していく中で、例えば家族や友達といった周りのいろんな人から、あなたはこういう人だ、こういうふうにしなさい、といった意見をいっぱいもらうものだと思います。でも私は、人は最終的にはやはり自分の心に聞いて、自分がどのようにあるべきかを問うべきだ、と思っています。それが民主的なやり方ですし、自由だと思います。
ホワイトガールは「分身」
私はアメリカで8年ほど勉強した後、香港に戻りました。自分がアーティストとして何か作るとするなら、それは香港に関するものにしようと決めていました。でもそれは何だろう。そんなことをクリストファー・ドイルと電話で話している時、彼は私に何をしているのか聞きました。私は窓の外を眺めていました。「何を見ているの?」と聞かれて答えたのは、漁村、釣り船と、あふれ出そうな貯水池。そんな風景を見ながら、この映画のストーリーを書き始めました。
海の近くで生まれ、でもここに属さない人間だ、という意味では、私自身がホワイトガールでした。私立のアメリカンスクールに通い、広東語は話せますが英語のほうが得意な私は、国外に住んでいるアメリカ人生徒の形をした中国人の子供という、少数者の1人だったのです。
だから学校の外では、地元の子供たちは私のことを自分たちの仲間だとは見ていませんでした。香港の海辺で育ったのに、子供たちは私のことをABC(アメリカ生まれの中国人)のように扱っていました。
私のように2つの言語、2つの文化の狭間にいると、他の人から自分は誰なのか、もしくは誰でないのかと言われます。でもそう問われることに、辟易しているんです。だから私は作品を通して、「これが自分だ、そして私はチーム香港のためにプレーするんだ!」と訴えなければならないのです。
「2046年」の意味
ウォン・カーウァイ監督の映画作品に、『2046』(2004年公開)という、2046年という未来が舞台のラブストーリーがあります。
実はこの「2046」という数字は、香港の人にとっては意味深い数字なんです。というのも、1997年に香港がイギリスから中国に返還されましたが、その際に中国は、50年間は今の体制を維持すると言明したんですね。つまり逆に言うと、2046年は、香港が今の状態でいられる最後の年になるわけです。
この世の中で賞味期限付きの場所、期間限定の場所というのはすごく少ないと私は思うんです。たとえば1991年にソ連という国家が崩壊しましたが、これは突然起こったわけですね。ところが香港は、2047年には今の体制が終わることがはっきりしていますから、今の香港は失われてしまうものだという特別な不安を抱えたまま、香港の人たちは日々を暮らしているわけです。
私もそうした不安を感じながら香港で育ちました。自分が生まれ育った場所はかけがえのないものなのに、それは期間限定でいずれなくなってしまうという矛盾を、自分の一部として抱えているんです。
香港は250年前まで、たくさんの漁村がありましたが、それがだんだんなくなってきています。漁村には独特の方言とか、ソルトウォーターソングというとても特別な歌があったりするのですが、今はもう歌える人も少なくなっている。でもそんな漁村が私の香港であり、私にとって大切な場所なんです。
「失われていく香港」を永遠に
この作品は一見現代風ですが、時代設定は仮想です。スマートフォンもパソコンもなく、あるのはウォークマン、カセットテープレコーダー、公衆電話、ラジオの電話リクエスト……。これらがあった時代は、世界はもっと狭く感じられたと思います。現代の状況はそれが破砕されていて、インスタグラムで誰をフォローしているか、どの新聞を読むか、どんなテレビ番組を観るかによって、人それぞれが独自の“現実”を持っています。私には、もっとシンプルな時代に戻りたいという思いがありました。
そして、どこか大切な場所が失われているということを観客に表現するには、こうした過去のものを描いてノスタルジアを想起させることで、「失われる」という感覚を呼び覚ましたいと思ったからです。そうすることで、今生きている世界が失われつつあるものであることを強調できます。私がただ、「今の香港はなくなっていくんだよ」と誰彼に話してもみんな信じてくれないでしょうが、この映画を観ていただければ、失われていく香港が伝わるのではないかと思います。
自分にとって大事な人や場所、失われても自分に影響を与えたものはいつまでも心の中に残っていたりするものだと思いますが、映画はそうした大事なものを残すことのできるメディアだと思います。
今回の映画で言うなら、漁村というものが「最後の香港」の姿です。映画の中でもちらりと映りますが、10月に「港珠澳大橋」が開通して、メインランドチャイナの広東省珠海市とマカオ、香港がつながりました。そして新しい再開発が進むわけですが、一方でどんどん失われていく「最後の香港」を映画に残すことによって、それを永遠のものにしたい。そういう意味でこの映画は、「最後の香港」の漁村を舞台にしたラブストーリーなのです。