「3億円事件」発生から50年 時効直前“特捜本部”が勝負をかけた取調室
名刑事「平塚八兵衛」再び
もっとも、決定的な決め手は見つけられないでいた。昭和44年、捜査一課長が浜崎仁から武藤三男に代わった。武藤は当時、あの「吉展ちゃん事件」の解決で名をあげた伝説の鬼刑事、平塚八兵衛を特捜本部に呼び寄せ、少年のシロクロの評価に決着をつける特命を与えた。結果、平塚が下した判断は“シロ”だった。
「まず八兵衛は、3億円事件は単独犯だと判断した。犯行の決行日に、実行犯はカローラ、白バイ、現金輸送車、カローラと、曲芸師のように次々と別の車両に飛び移っている。複数犯なら、こんな余裕のない危険な計画は立てない、というのが最大の根拠でした」
とは、当時の捜査幹部。
「そのうえで、少年はシロと判定された。3億円事件が起こる8カ月前から、多磨農協や多磨駐在所に次々と脅迫状が送りつけられる事件が発生していた。一連の脅迫状と後に送られた日本信託銀行への脅迫状の筆跡が一致。特捜本部では、3億円事件と同一犯と断定していた。この駐在所への脅迫状の切手についていた唾液の血液型がB型で、A型の少年とは合わなかったんです。また、その投函日に少年は練馬鑑別所に収容されていたことも分かった。八兵衛は“これ以上のアリバイはない”と得意げだった」
なるほど確かにその通りだ。しかし、それはあくまで単独犯という前提に立って、初めて成り立つ判断である。かりに複数犯であれば、この主張は崩れる。
「あの早い時点で、単独犯と断定してしまったのは失敗だったと思う。彼の判断が本部の公式見解となってしまい、佐伯少年の線はこの段階で消されてしまった」
と、別の幹部。昭和47年からは、平塚が捜査責任者として現場の指揮を執ることになった。過労で肝臓病を患い、2~3年で特捜本部から外れた鈴木元主任警部は慨嘆する。
「単数でも複数でも、実行犯は1人。そいつを捕まえれば、後は自然とついてくる。私は、窃盗の線で暴走族などを中心に捜査しなければダメだと言っていた。その意味でも、本来なら少年は消せなかったんです」
特捜本部では、少年の名前を出すことすらタブーになってしまったという。もっとも、そんな捜査も実は最終局面では、密かに軌道修正されていた。
佐伯少年の友人
時効まで残り5カ月ほどとなった昭和50年7月。土田国保・警視総監と鈴木貞敏・刑事部長は特捜本部に対し、「佐伯少年とその周辺関係者」を巡る再捜査徹底の特別命令を下した。現場に燻る疑念や不満を汲み取った上での指示である。すでに、平塚は引退していた。
「最後の捜査の主たる対象は、むろん、立川グループでした。その中で、事件後、急に金回りが良くなった人物が浮上した。青田正(仮名)=事件当時18歳=という男で、やはり車の窃盗常習者です。しかも佐伯少年とは親密な友人関係にあった」
と、ある元警部補。
「青田の家は貧しく、父親は病気で入院していた。本人も定職がなく、スナックを経営する母親にしょっちゅうカネを無心していた。それが事件翌年、喫茶店を開き、不動産会社を設立。昭和50年当時は、六本木に事務所を構えて株の仕手戦を手がけており、家賃が10万円以上もする代々木の外交官が住む家具付きマンションが自宅だった。何百万円もするムスタングやコルベットなどの高級外車を次々と乗り回し、ハワイの高級別荘まで購入していました。我々の間では“最後の容疑者”と呼ばれていた」
警視庁が青田を別件の恐喝容疑で逮捕し、最後の大勝負を賭けたのは、時効まであと25日となった11月15日のことだった。青田の取調べ状況を知る元刑事が述懐する。
「事件のあった時期以降、青田が動かしたカネは1億円近くになっていた。裏取りした結果、43~46年当時のカネが問題とされた。その間、彼は母親に750万円を渡していた。しかも事件の年の暮れに、友人に新聞紙に包んだ現金数百万円を貸していることも判明したんです。こうしたカネの出所を集中的に調べました」
青田は、母親に渡したのは、家と喫茶店を売ったカネだと説明したが、時期や金額が合わない。友人に貸したカネの出所についても、秩父の知り合いから借りたものとしたが、警察がその人物に確認すると、嘘だということが判明した。
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