執筆37年でついに完結! 宮本輝『流転の海』を私はこう読んだ
虚実を錯乱させる元祖AR――古市憲寿(社会学者)
先日、余部(あまるべ)鉄橋へ行ってきた。目的はもちろん、熊吾たちがおっかなびっくりヨネの遺骨を撒き、伸仁がクレオを放した景色を見るためだ。鉄橋は、立派なコンクリート製になっていたが、日本海に面する湾の形や山並みは熊吾の時代と大きく変わっていないのだろう。そう感慨にふけりながら不思議な気分になった。モデルがいるとはいえ、なぜ小説のキャラクターと同じ風景を見たいと思ったのか。それは『流転の海』が、もはや僕にとってただの虚構ではあり得ないからだ。たとえば作中に出てくる「大きい男っちゅうのは、気味悪いくらいに小さいもんも持ってるんや」という言葉は、そのうち小説で読んだことを忘れて、仲のいい友人の忠告だと誤解してしまうかも知れない。それくらいこの作品には現実感がある。本当か嘘かを錯乱させるような磁場と言い換えてもいい。現実にバーチャルを絶妙に上書きしてくれる『流転の海』は、元祖AR(拡張現実)なのだと思う。
季節と、命の流転に茫然とする――ロバート・キャンベル(日本文学研究者)
日本での生活が始まる前年『流転の海』が刊行され、博多の天神に行くと書店に並んでいるので手に取って立ち読みをした。今もよく憶えているが、止まらなくなってしまい、当時打ち込んでいた古典作品でもなんでもないのに買って帰って下宿で2日間ぶっ通しで読み終えたのであった。
第8部『長流の畔』までのタイトルはどれも視覚や触覚、聴覚という身体に訴える感覚の言葉で貫かれているのに、最終巻『野の春』だけは「春」という時間の移ろいを示唆するイメージに彩られている。なぜか。物事の終わりを告げる秋や冬ではなく、爛漫の春。
松坂熊吾は戦前幅広く事業に成功していたが戦争で財産を失い、敗戦を迎え、再起を誓う。50歳で父となる。生まれた息子伸仁の耳には「お前が二十歳になるまで、わしは絶対死なんけんのお」と囁くが、この約束こそ、長い歳月に紡ぎ出された不器用だが海のように深い父の愛の物語を予言している。春の盛りに伸仁は成人し、熊吾は逝く。季節と、命の流転に私は茫然とするばかりであった。
人生と重ね合わせて読んできた――渡邉美樹(参議院議員、ワタミグループ創業者)
50歳にして初めて子を持った熊吾は、伸仁に「いろんなことを教えてやる」と語りかけ、「経営する会社」と「愛する息子」という二つの生命体に、全身全霊で向き合ってきました。私も父として、2人の息子へ人生の教えを授け始めたのは、経営する会社が「つぼ八」から「和民」への看板変更を完了し、「いざ、行かん!」とする時期でした。
振り返れば、私は10歳の時に母を亡くし、ほどなく父も経営難に陥り会社を清算。どん底の中で、「絶対社長になって父の仇をとる。お母さん、見ていてください」と誓ったのが、私の経営者としての出発点です。
そんな私は、時に熊吾となり時に伸仁となって、自らの人生と重ね合わせ読んできました。今では孫を持つおじいちゃんとなりましたが、私の教えは息子たちにしっかり受け継がれました。伸仁の心にも、父の教えが根付いていることでしょう。物語は終わっても、私には伸仁がこれからも逞しく、志と共に成長していく姿が見えるようです。
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