「永田町の黒幕を埋めた」告白の死刑囚が初公判 明かされた怒りと詭弁

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 禿げあがった額、後ろに撫で付けられた白髪、両耳の補聴器。古希を目前に控えた被告人の姿は、老人そのものだ。が、握りしめられた左手をよく見ると、それが、握りしめられた“ような”手だと気付く。4本の指を詰めているため、親指しか残っていないのだ。

 1本指の被告人の名は、矢野治。前橋スナック銃乱射事件(2003年)で死刑が確定した、指定暴力団・住吉会の元幹部である。矢野は14年に死刑が確定し、同年、警視庁と本誌(「週刊新潮」)編集部に、闇から闇へと葬られた2件の殺人事件を打ち明ける手紙を送付した。

 最初の被害者は1996年、神奈川県伊勢原市の自宅から行方不明となった不動産業者の津川静夫さん(失踪時60歳)。2人目は、90年代半ば、現役の国会議員が多くの国民から大金を騙し取った「オレンジ共済事件」に絡んで、国会に証人喚問された“永田町の黒幕”、斎藤衛である。

 一般人も巻き込まれた未解決事件の告白を、警視庁はあろうことか放置した。が、本誌は、矢野が率いた組織の元組員で両事件の死体遺棄に関わった結城実氏(仮名)に接触し、事件の全容を16年2月に報道。その後、警察が慌てて結城氏に事情聴取をして、遺体の捜索を開始すると、証言通りに2体の白骨化した遺体が神奈川と埼玉両県の山中から出てきたのだ。翌年4月、確定死刑囚としては戦後初となる逮捕に踏み切り、その公判が、この11月からようやく始まったのである。

「こんな公判は初めてだ」

 とは、司法担当記者。

「傍聴席の目の前には5人の屈強な法務省職員が並び、入り口付近にも刑務官が。通常は起立する裁判官と裁判員の入廷時も、起立を禁止する告知がありました」

 襲撃を恐れているかのような警備体制だったのだ。

変遷する供述

 第2回公判では、結城氏が証人出廷した。

「アニキが延命を考えていようがいまいが、俺個人は一日でも長く生きて欲しいと思っているんです。でも、殺害まで俺のせいにしようとするのだけは、いい加減にしてくれ、と言いたい」

 と、結城氏が憤慨するように、矢野の供述は変遷し続けている。

 当初の手紙で、自らが殺害を依頼したと書き、〈唯、1人の日本男子とし、私の文言には嘘はありません〉とまで記した津川さんの事件について、一転、無実を主張。斎藤の件も、自分が殺害したとする手紙を初公判で否定し、実行ではなく殺害指示のみ、と言ったが、公判が進むと、それさえも曖昧な供述へと変わった。

「結城氏が殺害した、と供述した理由も、『結城を許せないと思って、そのような説明をしたことがある』と話していた」(先の記者)

 一時の感情に身を任せ、自分の配下だった結城氏を犯人にでっち上げるとは義理と人情の欠片もない。

 第3回公判では、明確に声を荒らげた一幕も。

 検察官の反対質問で、“嘘の手紙”を書いた理由を聞かれると、

「自分が殺人容疑で逮捕されれば、もう一度、群馬の件(前橋スナックの事件)が再捜査されるかも、という一縷の望みを掛けた」

 と話し、その理由を、

「群馬の件で逮捕された時、『記憶にない』と否認したのは上からの指示だった。が、死刑確定となった瞬間、組織からの金が止まり、私に事件の指示をした人間が引退するなり逮捕されるなりしてほしい、と思った」

 と、組織に対する怒りをぶちまけたのだ。厳重な警備体制の理由が垣間見える。

 私情で報道・警察・司法を操ろうとした矢野の逮捕劇は、12月13日の判決をもって、一旦、幕を閉じる。控訴しようが、執行への時が止まることはないのだ。

週刊新潮 2018年11月29日号掲載

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