「改革と開放」から40年「民間活力」という習近平の「苦悩」

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 師走を迎えると、鄧小平(当時、中国副総理)が開始した「改革と開放」からちょうど40年の節目となる。

 シンガポールのリー・クァンユー首相(当時)が、10年にわたった文化大革命(1966~76)の悲惨さからの離脱の手法に頭を悩ませていた鄧小平に、シンガポールの見学を誘ったのは1978年5月の訪中時だった。この年11月にシンガポールを訪問した鄧小平は、南方に成立した都市国家の繁栄ぶりを見て「改革と開放」に踏み出す決意を固める。1カ月後の12月には、その後の中国経済を決定的に変えた「改革と開放」が発表された。

 この間の経緯については、シンガポールでの宿泊の地となったエンプレス・プレイスの施設周辺に、控え目ではあるが英語の解説がなされている。「改革と開放」に強烈な刺激を与えたのはシンガポールなのだ、という自負の表れである。

リー・クァンユーの貢献と苦笑

 リー・クァンユーは、周辺のマレー系国家に対して常に慎重に対処した。インドネシアでもマレーシアでも、国内政情が不安になれば、「華人街」は攻撃の対象となった。このため中国との国交の樹立もASEAN(東南アジア諸国連合)加盟国で最後と決めていた。「改革と開放」から10年以上経過した1990年になって、やっとシンガポールと中国との国家間関係が成立している。

 鄧小平がフランスを目差す途中、シンガポールに2日間だけ立ち寄ったのは1920年のことだった。港湾機能はあったものの、貧しい華人がイギリスの支配のもとで働いているという印象しかなかったはずだ。文化大革命によって経済基盤の破壊がはなはだしく、もはや華僑による資金と経営能力の中国回帰を図る以外の手法はないとの思いが「改革と開放」の理念の背景だった。広東省と福建省とが華僑の圧倒的な故郷である以上、焦点はまずこの2省だった。リー・クァンユーは広東省、そしてその後継者となったゴー・チョクトン(元首相)は福建省を、父祖由来の地としている。

 シンガポール政府が江蘇省蘇州という中国文化の中心地に工業開発パーク「蘇州工業園区」の建設投資を決めたのは、鄧小平による1992年の南巡講話によって「改革と開放の加速」が決まってからだ。資産接収の恐れが中国人から消えたのは1992年以降である。鄧小平によって歴史が刻まれてきたことは明らかで、しかも彼を刺激し続けたのはリー・クァンユーであったと言える。

 しかし中国の現実は一直線ではない。「蘇州工業園区」の建設にシンガポールは培ったノウハウのすべてを注ぎ込むが、しばらくするとその隣接地に蘇州市政府の手で独自の「工業園区」が立ち上がる。彼らは地代に差をつけたので、シンガポールの「蘇州工業園区」は大苦戦に陥る。リー・クァンユーは腹を立てた。私は晩年のリー・クァンユーに、この点についてインタビューしたことがある。彼は「中国文化の中心地であったので蘇州と立地を決めた。それでもこの有り様だった。中国に根付くのは背信への恐れよりも、利益の刈り取りに余念なしという姿勢なのだ」と苦笑まじりに経緯を話してくれた。

「輸入博覧会」を開いてはみたが

 中国は2001年にWTO(世界貿易機関)加盟を果たす。今世紀に入った段階で中国経済の世界に占める比重は約5%だった。しかしこれが今日では15%に達した。5%の時には大目に見られたことも、20年足らずの間に3倍もの比重になれば、「知的所有権の実質的剥奪があったとしても、それは巨大市場へのアクセスの代価だ」とは中国に進出した世界企業も言っていられなくなる。これが中国のWTO違反の廉(かど)として取り上げざるを得なくなる由縁といえよう。「米中貿易戦争」と一括して表現されることが多いが、WTO改組構想に各国とも必ずしも熱心といえないのは、中国がまず基本方針を変えることが先決と考えているからだ。中国の指導者は「自由貿易と多国間主義の原則は守らなければならない」と主張する。しかしだからといってWTOの場が際立つわけではないという現実が、地球規模において重い。

 11月に入って上海で中国国際輸入博覧会が開催された。輸入推進に焦点を絞った世界で初めての博覧会という触れ込みで、中国の指導部がおよそ1年をかけて企図、実施したものである。

 博覧会は、習近平中国国家主席の演説で開幕した。当初は中国各地からの業者、関係者が、後半では抽選で一般消費者も参加できるという仕組みである。交通規制も安全保障上の理由から厳しく、顔面認証も徹底しているので、お客様を迎え入れるという雰囲気には遠かったが、世界にどのように伝わるのか、という視点を突出させて立案されたものであることは確かだ。

 展示はもちろん企業サイドの裁量に委ねられている。私が立ち寄ったところではトヨタ自動車は水素自動車に重点を置いており、FCV(燃料電池自動車)のバスには来会者が殺到していた。中国における環境汚染対応の緊急化と多様化という課題が焦点となりつつあることを示すものと言えよう。

 しかし、国際輸入博の開催が米中摩擦の緩和策の切札というわけにはいかないことは、中国の指導部も承知しているだろう。中国経済にはすでに間違いなく、投資や生産面において下押しの圧力がかかっているからだ。鄧小平の指導並みに画期的な民力引き出しの施策を打ち出したいところだ。

 ところが皮肉なもので、習近平時代とは国有企業の比重の一層の高まりと共産党指導の強化によって特徴づけられる、との理解が広まったままだ。反腐敗のスローガンに批判される側面はないはずだが、全国各地で共産党指導部による恣意的な民間企業への介入が相次いでいるとの声がネットにあふれ始めている。習近平体制の行き詰まりを示す1つの側面が、米中貿易摩擦の最中において、これまでは等閑視してきた民間企業の活力への期待を表明せねばならなくなっているという状況であろう。

 そもそもアリババの創始者ジャック・マー(馬雲)の引退宣言や、オンライン・ゲームでのしあがったテンセントに対する締めつけも、権力による民間への介入が民間企業の意欲を奪い始めているのでは、という指摘に繋がってきたというのが現実であろう。

事例の少なさがネック

 ところがここへきて、民間企業の比重が圧倒的に高い福建省が中国メディアで取り上げられることが増えた。習近平主席が福州市党委員会書記や福建省長などを歴任して18年近くも在任した地であり、福建省長当時の2002年には、晋江市での民間企業の積極的な取り組み事例を称賛したこともある。そして今日になって、「晋江での実践」が再び持ち上げられる気配だ。

 河北省の保定の近辺では「雄安新区」という巨大都市の建設が、習近平主席の呼びかけで始まった。BATと呼ばれるバイドゥ、アリババ、テンセントというIT(情報技術)時代の覇者たちは、雄安新区での新しい挑戦に追い立てられようとしている。環境、効率、安全の共創を掲げ、スマートシティ建設の第1号にしようとする試みといえようが、完全監視社会の実現が、果たして中国の掲げるイノベーションの実現に繋がるのかどうかについて、私の知る限り中国でも疑問視する人が多い。

 民間活力の引き出しに繋がったとされる「晋江での実践」も、「あれは習近平指導が腐敗防止を掲げる前の事例で、民間事業者は規制措置、許認可、行政介入という壁を乗り越えるに当たって、採用できるものはすべて使った結果であったに過ぎない」と解説してくれた人もいる。ここでは「雄安新区の建設手法」と「晋江での実践の称揚」とはまったく方向が逆で、民間活力を引き出すという方向性に収斂していない、との声が広まりつつあるのだ。彼らは次のように表現する。「10月から11月にかけてのわずか1カ月間に習近平主席は5回も民間企業の重要性に言及し、民間企業セクターの懸念に正面から向き合う、とした。これは共産党指導の現場においては、民間企業への抑圧的介入の事例が相次ぎ、株主の意向を企業経営に反映させることを旨とする企業統治の原則が踏みにじられることが常態になりつつある、との指摘への危機感がなせるものだ」。

 米中摩擦への対応が急がれる中で、中国共産党による民間指導も、また重要な局面を迎えつつあると言えよう。「改革と開放」から40年が経過し、中国はもう1つ乗り越えねばならない厳しい局面を迎えた。鄧小平は香港に隣接する深圳を選んで「改革と開放の加速」の発言場所とした。深圳では「天は高く王様は遠い」という表現が使われる。自由の気風が満ち、権勢家の威力も及びにくいところを選んだのが鄧小平だとすれば、「雄安新区」は王様のプロジェクトとでも呼ぶべきもので、必達目標として提示せねばならない。他方、民間活力の引き出しとなると、福建省晋江市での実践しか参照事例として提示できない習近平主席の苦悩は相当に深い、と見るべきであろう。

田中直毅
国際公共政策研究センター理事長。1945年生れ。国民経済研究協会主任研究員を経て、84年より本格的に評論活動を始める。専門は国際政治・経済。2007年4月から現職。政府審議会委員を多数歴任。著書に『最後の十年 日本経済の構想』(日本経済新聞社)、『マネーが止まった』(講談社)などがある。

Foresight 2018年11月30日掲載

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