「みんなが」「この世界は」と語る事の恥ずかしさ(中川淳一郎)
最近様々な研究者やメディアの人と喋っているテーマが「分断」です。ネットがここまで普及したことにより、かつての「誰もが知っていること」が分断され、「自分の周囲の人(SNS上の友達含む)が知っていること」に変化したのでは、という仮説です。私の場合、「東京で働くIT系、出版系、広告系」の人々が「周囲の人」にあたります。
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この人々は、同じ話題を知っています。ネットで拡散された事件や、ツイッターで多数RT(引用)された投稿、数々の炎上騒動、ネット有名人が最近誰と仲が良いか、など。
しかし、これはものすごくマイナーな話であることが分かるのです。たとえば、私が2009年に書いた『ウェブはバカと暇人のもの』という本ですが、これらの業種の人々の多くは読んでくれています。何しろ当時のバラ色のウェブの未来を完全にぶっ叩いた本なので、知識として知っておいた方がいいと考えたのでしょう。
だから、「分断」について喋っていた時に、同書の実際の部数を伝えたところ「えっ? そんなに少なかったんですか……? 私の周りはみんな読んでいたので、50万部ぐらい行っていると思っていました」と言われました。これは何度も経験していることなのですが、「自分の周りが皆読んでいるから、すごく売れている」と感じてしまうのです。
とはいっても、これらの業種の人でも、さすがに私がウオッチし続けている「ネット上の左右対立」にはあまり知識がなく、この話題については、ツイッターで相互フォローになった同じ事に関心を持つ見知らぬ者同士で意見のやり取りをしている状況です。そして、その人々も「リアルな友人はこんな好事家向けの話題についてはまったく関心を示さない」なんてことを書いています。
一方で、長年会っていなかった友人とは、すっかり会話が成立しなくなってきています。もちろん、過去に共有した話から発展させた話題では話が通じるのですが、我々の業界の話になると途端に分からなくなる。
現在電機メーカーに勤務する大学時代の友人に、10年ぶりに会いました。するとこんな会話になります。
「えっ? 会社辞めてたの?」
「17年前の話だよ。今はウェブのニュースの編集をやってる」
「じゃあ、有名人に会うことはあるの? 最近会ったのは誰?」
そこで評論家の勝間和代さんの名前を挙げたところ「知らないなぁ……」と言い、続いて漫画家の倉田真由美さんの名前を挙げても「誰だそれ?」と言います。いずれも雑誌を見ていればよく見る名前で、勝間さんはネットでも存在感があります。そこで、会ったのは随分前になりますが、ロンドンブーツ1号2号の田村淳さんの名前を挙げたら「おぉ! 分かる!」と反応がまったく異なりました。この友人も含め、同じサークルにいた仲間と10年前に飲んで、「mixiとツイッターの違いって何だ?」と聞かれたこともあります。
私も彼らがよく知っていることはまったく知らないでしょう。自分の知っている知識や意見だけを基に「みんなが」や「この世界は」と言うのが恥ずかしくなりました。