「記憶」は未来をつくる「原動力」:建築家・田根剛インタビュー(上)
田根剛氏はフランス・パリを拠点に活動する建築家だ。2006年、「エストニア国立博物館」の設計者を選ぶ国際設計競技(コンペ)に仲間2名との共同案で勝利。ロンドンの設計事務所に勤める無名の青年は、その斬新な案とともに、一躍世界に知られる存在になった。当時26歳。鮮烈なデビューだった。
「エストニア国立博物館」が2016年に完成したことを機に、パリで共同主宰していた設計事務所Dorell.Ghotmeh.Tane / Architects(ドレル・ゴットメ・田根/アーキテクツ=DGT.)を解散。田根氏は自身の設計アトリエをそのままパリで立ち上げ、現在は約30名のスタッフと世界各地で様々なプロジェクトを進めている。
そんな田根氏の初めての個展が、東京・初台の「東京オペラシティ アートギャラリー」と東京・乃木坂の「TOTOギャラリー・間」で開催中だ。2館共通の展覧会タイトルは『未来の記憶 Archaeology of the Future』。副題に前者は「Digging & Building」、後者は「Search & Research」が続く。
軍用滑走路を国立博物館に
展覧会タイトルに含まれる「記憶」と「Archaeology(考古学)」は、田根氏の思考や作品を理解するうえで欠かせない言葉だ。田根氏は「場所には必ず記憶がある。建築はそれを継承し、未来をつくる原動力にすることができる」と常々話す。
田根氏が初めて「場所の記憶」を意識したのが、前述の「エストニア国立博物館」だ。博物館の建物はソ連占領時代の軍用滑走路に接続し、それを延長させたようにコンクリートの大屋根をつくっている。滑走路から徐々に高くなっていく大屋根をガラスの壁が両側から支え、そのガラスにはエストニアの伝統文様が細かく施されている。
バルト3国の1つであるエストニアは13世紀以降、ドイツやスウェーデン、ロシア帝国といった近隣諸国に長く支配された。ロシアの十一月革命後の1918年に独立を宣言したが、第2次世界大戦中にソ連に占領され、戦後は併合。1991年、ソ連が崩壊する直前に独立を回復した。
独立時の公約だった国立博物館の建設には、こうした歴史的な背景がある。国立博物館というのはその国のアイデンティティを示す場だから、エストニアにとっては悲願と言えただろう。
DGT.の案は、そんな国立博物館と打ち捨てられていた軍用滑走路を一体にしようというもの。コンペで規定された敷地は近くの別の場所だったが、田根氏は、
「敷地の写真を見ると、隅っこに消しゴムで消されたような部分があり、何だろうと調べたら軍用滑走路でした。これは活用するしかない。直観的にそう思いました」
と振り返る。
建設地はエストニア第2の都市タルトゥで、エストニアの国立博物館の始まりとされている場所。1909年に6人のエストニア人が集まり、当時ドイツ領事館だった建物を利用してコレクションを展示したという。新しい国立博物館はもともとあったその場所につくろうという計画だったが、付近にソ連占領時代の空軍基地の廃墟が残っていた。
「軍用滑走路はエストニアの人々にとって負の遺産であり、避けられていました。しかし、負の遺産とエストニアの民族の記憶を継承する博物館を1つにすることは意味があると考え、負の歴史を直視する建築によって、未来の世代はこの場所の意味を変えられるというメッセージを込めました」
側面から見ると未来に向かって飛び立つような形は、その表れだ。
コンペでは100を超える応募案から選ばれ、審査委員長の文化大臣は「モニュメントではなく、ランドマークになっている。エストニアにとって、これしかないという提案だ」と評したが、メディアのバッシングを受けた。また、リーマン・ショック以降の世界経済の悪化やユーロ危機により、プロジェクトは一時期休止状態に陥り、再開を待つ日が続いた。
再開後も予算を当初の5分の1まで削減するために、デザインの大きな変更を受け入れざるを得なかった。国家プロジェクトを担う重責以外に、このようにタフな心を求められる局面が次々に訪れ、また、実務経験の少なさを実地で学んで挽回する苦労もあった。
当初は4~5年で完成する予定だったが、最終的に開館まで10年かかった。ようやくその日を迎えたときの喜びの大きさは想像に難くない。さらに開館後、建物が使われるようになってから、館長が「占領時代を乗り越えられたという実感を持ち始めた」と話していたという。田根氏は「その言葉は本当に嬉しい」と笑顔を見せる。
「宇宙船か古墳か」
この「エストニア国立博物館」のプロジェクトで、田根氏は「考古学的リサーチ」と呼ぶ手法に可能性を見いだした。
「コンペに応募する前は、自分はどういう建築をつくるべきだろう、競争の激しい建築の世界で自分はどう勝負できるだろう、といったことを考えていたのですが、コンペに勝ったとき、このように場所の記憶や意味を掘り下げて建築をつくることに向き合っていけばいいんじゃないか、と道が開けたように思いました」
そして2009年、「デンマーク自然史博物館」のコンペに応募した際、リサーチを建築の提案につなげる手法に手応えを得て、手法の確立に力を注いだ。
2012年の新国立競技場基本構想国際デザイン競技(ザハ・ハディド案選出時)でファイナリストに選ばれた「古墳スタジアム」も、考古学的リサーチから生まれた案だ。
「なぜここに古墳が出てくるのか。唐突に思うかもしれませんが、場所の意味を掘り下げた結果です」
場所は明治神宮外苑の敷地内。明治神宮はご存じのように明治天皇と昭憲皇太后を祀る神社で、境内は深い森に包まれる。この森は人工的につくられたものだ。神社建設がこの地に決まった1914年に、当時の人々が100年後に自然な状態になっている「永遠の森」を目指して計画し、全国から奉献された約10万本の木が延べ11万人に及ぶ青年団の勤労奉仕により植えられた。
一方、神宮外苑はスポーツと文化の振興の場としてつくられたが、「時代の変遷により、場所の意味が散漫になった」と田根氏。そんな場所に競技場をつくるなら、100年前の人々の思いを受け継ぎ、大きな森として未来に残せるものにできないか。そう考えたときに「古墳」が浮かんだ。古墳は多くの人手を要して造営され、長い歳月を経て緑に覆われた。その様子は神宮の「永遠の森」に通じるところがある。
また、競技場の起源は古代ギリシアにあり、山を削って人々が集まる場所をつくったことに遡る。つまり建設するというより、自然の中に埋め込んだ場所だった。
東京の中心部には、明治神宮のほかにも新宿御苑や皇居、赤坂御用地など、意外に“森”がある。近年は日本に限らず、郊外型のスタジアムが主流だが、新国立競技場は東京のど真ん中。
「ならば、東京の森に埋め込むようなことができないかと考え、古代日本における最大の建造物である古墳を、現代における最大のスポーツの祭典であるオリンピックのための建造物として構想しました。
考古学的に掘り下げることで、これしかない、というものが見つかります。そして全く関係ないものを建築として結びつけたとき、論理的には飛躍があっても、そのアイデアは未来を生み出す力を持つのです」
考案した「古墳スタジアム」は地下にあるフィールドとトラックをすり鉢状の観客席が囲み、全体は緑に覆われた丘陵のような形になる。田根氏は明治神宮の「永遠の森」のつくり方に倣い、全国から木を集め、人々の手によって100年の森をつくるナショナル・プロジェクトとすることも案に盛り込んだ。また、ただ森をつくるのではなく、エネルギー問題の鎮静化や資源のリサイクルが可能な仕組みも考えていた。
高校時代にプロのサッカー選手を目指していた田根氏。聖地である国立競技場のコンペにかける思いは並々ならぬものがあった。「古墳スタジアム」は応募総数46点の中から最終審査の対象となる11点に選ばれ、選考案が公表されると、「宇宙船か古墳か」と世間の耳目を集めた。しかし、結果は惜敗。最優秀賞に選ばれたのは、故ザハ・ハディド氏による“宇宙船”の案だった。
その後、新国立競技場は紆余曲折を経て、最終的に隈研吾建築都市設計事務所共同企業体と大成建設、梓設計のグループによる設計で現在建設中であることは周知の通りだ。(つづく)
田根 剛|未来の記憶
Archaeology of the Future―Digging & Building
会期:12月24日(月・休)まで
会場:東京オペラシティ アートギャラリー
休館日:月曜日 ※ただし12月24日(月・休)は開館
開館時間:11:00~19:00 ※毎週金・土曜日は20:00まで
田根 剛|未来の記憶
Archaeology of the Future―Search & Research
会期:12月23日(日・祝)まで
会場:TOTOギャラリー・間
休館日:月曜日、祝日 ※ただし12月23日(日・祝)は開館
開館時間:11:00~18:00
CITIZEN“We Celebrate Time”100周年展
会期:12月7日(金)~16日(日)
会場:スパイラルガーデン
休館日:会期中無休
開館時間:11:00~20:00