初の舞台化! 三島由紀夫『豊饒の海』で向き合う「生と死」、そして「美」
人間の存在と輪廻転生の壮麗な物語を描く三島由紀夫の『豊饒の海』。『春の雪』『奔馬(ほんば)』『暁の寺』『天人五衰(てんにんごすい)』の4作からなる畢生の大河小説が舞台作品として、現代に甦るという。この野心あふれる試みには、イギリスでもっとも注目されている演出家の1人であるマックス・ウェブスターを迎え、脚本は「てがみ座」主宰の長田育恵が手掛けた。三島文学を体現するキャストは東出昌大、宮沢氷魚、上杉柊平、大鶴佐助、神野三鈴、初音映莉子、首藤康之、笈田ヨシら。三島自ら「世界解釈の小説」とまで語った絶筆の書を、実力派との呼び声高い俳優陣はどう演じ切るのか。4つの物語を導く本多繁邦の老年期を演じる笈田ヨシ(85)と、「美」の象徴であり、本多が生涯執着することになる松枝清顕に挑む東出昌大(30)に、三島文学の魅力、そして舞台への思いを聞いた。
――『豊饒の海』の完結となる『天人五衰』の末尾に記された「昭和四十五年十一月二十五日」は、三島が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した日でもあります。約6年の歳月を費やし、壮大な世界観を込めた遺作を舞台化すると聞いたとき、三島作品の大ファンだという東出さん、生前に交流があったという笈田さんはどのような思いを抱かれたのでしょうか。
東出 4作を1つの脚本にできるのかと、最初は正直、耳を疑いました。三島由紀夫の文学作品の中でも『豊饒の海』は最高峰のものだと、僕は勝手に位置付けています。判断基準が陳腐なのですが、『禁色(きんじき)』『音楽』『潮騒』『仮面の告白』『金閣寺』『午後の曳航(えいこう)』――すべて理解していると断言はできないんですけれども、三島作品を一通り読んだ中でも、『豊饒の海』はとりわけ読むのに時間と労力がかかったので。1冊を読み込むのも難しいと感じるのに、4作すべてを貫くテーマを考えるとまた違った意味が立ち上がる。ましてや文章表現において、これでもかというぐらい三島がブイブイ腕をふるっていますし、やはり僕の中ではまぎれもなく“最高傑作”です。
ですが、脚本を読んでみると、この作品のスケールの大きさに対して感じた恐れやおののきがかなり解消されました。学生、中年、老年と3人の本多が現れることで、単なる時系列ではない時のうつろいが感じられ、それが視覚的に皆さんの目にどう映るのか、今は楽しみです。また三島の「美文」が戯曲化されても失われず、セリフに生きている。いち三島ファンとしてもうれしい脚本でした。
笈田 私は60年ほど前、文学座の公演で三島先生が演出された『サロメ』(1960年)に出演したことがあります。今、再び先生の作品に相対することができ、感無量の一言です。『豊饒の海』は4部作ですが、自分も役者人生を送っている中で、知らず知らずこの遺作を追いかけているようでした。『春の雪』では自己確認やギリシャのエロス、愛が、『奔馬』では神道、天皇が、『暁の寺』では肉体と精神、魂の関係が、『天人五衰』では神を失った実存主義的な生き方の青年が出てきて、「実」と「無」がつながる。僕も初めて海外で演出をはじめたときに「自己再発見」をして、『古事記』を元にした芝居で「神道」を取り上げた。そして『チベットの死者の書』の舞台化で「輪廻」を考え、禅書を元に「無」を追求してきました。日本人として何かを表現していこうとすると、先生と同じような思考の経路をたどるようになるのかもしれません。
――笈田さんは若いころ、三島由紀夫に似ていると言われていたそうですが……。
笈田 先生が手掛けた舞台に僕が出ていると先生に似ているらしく、先生が出ていると観客が勘違いしたくらいで、先生も「なんでぇ、オレの真似しやがって」と冗談を言っていましたね。ぺーぺーの役者だったにもかかわらず、『サロメ』ではサロメに恋してかなわず、自殺してしまうオスカヤ兵ナラボトという大役に抜擢されました。胸と太ももが露わになるナラボトの衣装を見た僕が、「洗濯板のような体なので、この衣裳は無理です」って慌てふためいていたら、先生は「オレの弟子にしてやる」ってボディビルのジムに連れてかれました。先生が教えるわけじゃないんですけどね。舞台稽古の日、ナラボトが剣で自分の胸を刺すシーンを見て先生は迫力が足りないと、小道具に「もっと血を出せ。血が少なすぎる」って注文をつけていました。後から割腹自殺をしたと聞いたときに、自分に似ている僕を舞台に立たせて、自決する様を客観的に見たかったんじゃないかと、あの役をくださった理由がわかったような気がしました。その後、自ら主演を務めた映画『憂國』(1966年)では切腹シーンを御自分で演じているので、3度目に現実社会で実演された、ということかもしれません。
――『豊饒の海』では人物の外見から心の動き、周囲の風景まで、非常に詳細な描写がなされています。そのことは芝居の助けになるのでしょうか。それとも、妨げになるのでしょうか。
東出 それが僕の好きな三島文学の特徴で、特にコンプレックスや黒く汚い感情を説得力ある文章で描き切っている場面は、人間の恐ろしさが鮮烈な印象を持って迫ってくるような凄味があります。けれども、描写された心理の1つ1つを、舞台でくまなく掬い取ろうとすると、観ている側は言葉や演技を羅列されて、何をしようとしているのかわからなくなってしまうと思うんです。だからこそ、取捨選択をしなければなりませんが、それは決して仕方なくということではなく、良い意味での“改変”です。文字数と情報量は少なくなっても、芝居の“余白”で「人間ってこうだよな」って、頷いてもらえるかどうかにかかってくるので、その方が、よほど難しいのですが……。
たとえば、原作で本多が清顕に歴史や人間の存在について長く語る9ページほどの場面があるのですが、途中、清顕の「……なんだね」という相槌で本多の話を理解していることがわかります。でも舞台では、そのシーンは短くなるので、最初から本多の話を理解できていないようにするのか、途中からにするのか、原作と対比した上で物語を伝えやすくするよう、いろいろと試しています。
笈田 『豊饒の海』を今また読み返すと、そのストーリーや哲学はもちろんのこと、それ以上に豪華絢爛な「たとえ」「形容」に、よくこれだけの想像力があるものだと驚きます。満開の桜のように、語彙、イマジネーションが華やかに言葉を飾っていて、その才能たるやもう……。ただ、芝居では役者が演じているのを見て、観客が想像力を掻き立てる、その両者の化学反応がおもしろい結果を引き出しますから、この役はこんな風に解釈しなくちゃいけないと押し付ける演技ではなくて、想像を手助けする材料を提供するようにしたいですね。
――東出さんは松枝清顕、笈田さんは本多繁邦というそれぞれの人物や役柄についてどう思われますか。
東出 三島はバルコニーで自決するときに行った演説で、「日本は経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的に空っぽに陥って」いると話し、遺書では「みかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐる」と書いていました。清顕は圧倒的な美しさを具えて侯爵家に生まれ、金銭的にも物質的にも潤沢な生活を送っています。しかし、自分が生きていくための理由を漠然と考えている。僕の勝手な解釈ですが、三島の最後に残した言葉と清顕が重なり、そして、それは現代の若者にも近しいのかもしれません。
また、先日読んでいた登山家の本に、フリークライミングの思想について書かれていました。以前はエベレストなどの標高の高い山に登るときには、良い装備を揃えて頂上にたどり着くことがゴールだったのに、装備さえ十分であれば多くの人が登頂できるようになった今は、装備をどんどん外して山頂を目指すようになったそうです。もちろん、失敗したら死につながりますから、傍から見れば、なぜそこまでして命と向き合うのかとバカバカしく見えるのでしょうが、物質的なものをそぎ落として進む生き方の美学が、三島の思い描いたものに通じるようにも思いました。
笈田 先生は「人間は生きる上で自由はないけれども、1つだけ自由がある。それは自分で自分の命を絶つことだ」とおっしゃっていました。だからこそ、希望通りに美しく自分の死を終えられた。自分は特殊な存在と考え、死をもって「美学」を表現されたのではないかと思います。その反面、僕はこうしてだらだらと長く生き様を晒している……。それが奇しくも、『豊饒の海』の若くして死に至る清顕と、醜く老いさらばえ、死んでいく本多と重なっているように感じました。
――今回の舞台は日本人ではなく、イギリス出身のマックス・ウェブスターさんが演出されますね。
東出 マックスと最初に話したときに、「私は“三島”という神話を知らずにこの作品に取りかかったので、シンプルに人間ドラマを描こうと思っている。日本人と違って、三島の影におびえずに済むのは有利だ」と言ったことが印象に残っています。日本人はほんの少しの言い回しにも敏感に感じる。たとえば、男女2人が差し向かいで食事をしていて、「今日“は”お酒がおいしい」と言えば、その「は」に、愛情を表す意味が生まれます。しかし、マックスはそういう意味合いだったら、単純に「目の前にあなたが座っているからおいしい」と言ってもいいのではないかと、大胆な提案をしてくれます。三島の世界に固執して、細かい部分にばかり気をとらわれ過ぎると舞台は悪い方へ傾倒してしまう。そうならないよう中立を保ってくれるのは、イギリス人のマックスだからこそだと思っています。
笈田 僕は50年以上も外国人の演出家とばかりやってきたから、特別な感じはありませんが、演出家によっては装置や衣装、演出家のアイデアを重要視し、役者をそのオブジェと考える人もいます。マックスは役者から人間性を引き出して表現しようとするタイプ。役者を第1に置いて、自分のアイデアを押し付けるような芝居を作らないので、一緒にやっていて楽しんで演じることができます。
――原作を読まれていない方も楽しめる舞台でしょうか。
笈田 トーマス・マンの『ヴェニスに死す』は老齢に差し掛かる男性作家が、ヴェニスで美少年に魅せられてしまう物語でしたが、 ルキノ・ヴィスコンティが映画化した際、少年が実像として現れると、すでにイメージを作っていた読者は「こんなんじゃない」と拒否してしまったということがありました。ですから文学作品を演じるときには、たとえイメージに合わなくても、「これはこれで1つの作品だ」と納得してもらうしかありません。そうした舞台を、どう皆さんと作り上げるか……。まだ暗闇で漂っているような状態ですが、あまり早く演じ方を決めつけてしまうと間違いがあるような気もしますので、初日に答えを出すことができればいいなと思います。そしてそれは公演期間中も変化していくかもしれません。三島由紀夫の作品だとかまえることなく、登場人物たちの生き方死に方をご自分の人生観に照らし合わせて、1つの独立した作品として、ぜひご覧ください。
東出 今回の戯曲は原作を読んでいてもいなくても、むしろ読んでいない方こそ楽しめるかもしれません。舞台化にせよ、映画化にせよ、原作を超えること、つまり読者が想像力で完成させた世界を超えることはなかなか難しい。けれども、血の通った人間が演じることで、活き活きとした世界を描き出せることはあるはずです。約2時間半の舞台をご覧になって、何がしか感じたものを持ち帰ることができる、それがこの舞台の正解かなと思います。
東出昌大(ひがしで・まさひろ)
1988年生まれ。埼玉県出身。2012年、『桐島、部活やめるってよ』で俳優デビュー。『クローズEXPLODE』で映画初主演、近年の作品に、映画『聖の青春』『OVER DRIVE』『パンク侍、斬られて候』『菊とギロチン』、テレビドラマ『コンフィデンスマンJP』など。主演映画『寝ても覚めても』が第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品され話題に。11月1日より『ビブリア古書堂の事件手帖』が公開。
笈田ヨシ(おいだ・よし)
1933年生まれ。兵庫県出身。文学座、劇団四季を経て、1968年にロンドンで舞台『テンペスト』に出演。以後パリに拠点を移し、舞台『マハーバーラタ』『ザ・マン・フー』『春琴』、映画『沈黙―サイレンス―』などに出演。 『蝶々夫人』『戦争レクイエム』など自ら演出も数多く手掛ける。 1992年フランス芸術文化勲章シュバリエ、2007年同オフィシエ、2013年コマンドゥールを受勲。2019年には新国立劇場にて西村朗作曲新作オペラ『紫苑物語』(世界初演)の演出を手掛ける予定。
2018 PARCO PRODUCE ”三島 × MISHIMA “
出演:東出昌大、宮沢氷魚、上杉柊平、大鶴佐助、神野三鈴、初音映莉子、大西多摩恵、篠塚勝、宇井晴雄、王下貴司、斉藤悠、田中美甫、首藤康之、笈田ヨシ
原作:三島由紀夫「豊饒の海」(第一部「春の雪」、第二部「奔馬」、第三部「暁の寺」、第四部「天人五衰」)より
脚本:長田育恵
演出:マックス・ウェブスター
公演日:11月3日(土・祝)~12月2日(日)※3~5日はプレビュー公演
大阪会場:森ノ宮ピロティホール
公演日:12月8日(土)~12月9日(日)