「大失言」で決選投票にもつれ込んだジョージア史上初「女性大統領」候補
ジョージア(グルジア)を中心部に置くコーカサス(カフカス)地方は、ユーラシアの歴史の中で常に特異な地位を占めてきた。それは、何よりもこの地域だけでしか話されていない孤立言語の存在からも明らかであろう。
一方、ジョージア人は遠くモンゴルから中東全域、そしてヨーロッパ各地にまで歴史的にその足跡を残してきた(米ジョージタウン大学国際関係論・統治学教授チャールズ・キング著『黒海の歴史』など参照)。
筆者は、四半世紀にわたって狭義の専門としてはアーリー・モダン(近世、初期近代)イラン世界におけるジョージア・コーカサス系エリートの政治活動を追ってきたが、その過程で、ジョージアだけではなく、中国からイラン、トルコ、東欧各地、西欧主要国、アメリカなど様々な地域を訪れる機会を得た(なお、まだ建設中であるが、関心の向きは筆者のウェブサイトも参照されたい)。
また、もともと映画などで彼の地の文化に惹かれて現地の研究を志し、ジョージア独立後邦人としてはじめて2年間の現地留学を果たした。ここでは、国際政治に留まらず、より広く文化や歴史的ユーラシア世界を、ジョージアに焦点をあてつつも見ていきたい。
なお、一部愛着あるグルジアの名称であるが、本稿では以後の国名呼称も「ジョージア」で統一したい。
番狂わせ
2018年10月28日、ジョージア国第5代大統領を選ぶ選挙が行われた。候補者25人のうち、与党候補と野党連合候補の事実上の一騎打ちとなった。だが、詳細は後述するが、いずれの候補も過半数を得られなかった模様で、12月1日までに決選投票が行われる見通しだ。
今年は、いわゆるグルジア紛争(南オセチア戦争。南オセチアの帰属をめぐるジョージアとロシアの戦争)からちょうど10周年にあたり、その意味でも、今後のジョージア情勢ひいてはユーラシア政治の潮流の行方を占う上で、この選挙の意義はたいへん大きい。
過去の大統領選についてみても、初代大統領ズヴィアド・ガムサフルディアは軍事クーデターで国を追われ、内戦のさなかに謎の死を遂げた。第2代大統領エドゥアルド・シェワルナゼもまた、自らが引き上げたミヘイル・サアカシュヴィリが仕掛けたいわゆる「バラ革命」(経済混乱や汚職をめぐって起きた大規模デモで政権を倒した無血革命)によって、2003年秋に失脚した。
そして、第3代大統領に就任したサアカシュヴィリもまた、おそらく首相への横滑りを狙った2012年の議会選挙で、投票日直前の突然の「監獄スキャンダルビデオ放映」(刑務所における拷問の様子をテレビ局が放映した)により、反対派に一気に形勢を逆転されてしまう。前回2013年の大統領選で新たにギオルギ・マルグヴェラシュヴィリが選出されると、退任したサアカシュヴィリは汚職などによる訴追を恐れて国外に逃れ、ついにはウクライナ国籍を取得して同国のオデッサ州知事に就任。その後ふたたびウクライナでも失脚するという、実に浮き沈みの激しい人生を送っている。
このように見ていくと、初代以降ほとんどのケースで政権交代を伴う激烈な大統領選挙が繰り広げられてきたことがわかる。
ところが、今回は過去の選挙戦と比して、いささか盛り上がりに欠けた。独立後25年以上が過ぎ、当初の混沌とした状況から比べると国情もたしかに安定してきたが、その他にも種々の要因が存在した。それでも、結局のところ、「番狂わせ」が発生しそうな状況となったのは、ジョージアらしいというべきか。
その、今回の選挙の話を具体的に述べる前に、おそらく読者の多くはジョージアの政治といってもほとんど前提となる情報に乏しいと思われるので、大前提を3つ記しておきたい。
ジョージア政治の現在
日本では、2008年の北京オリンピック開催日前夜に突如起こったいわゆる「南オセチア紛争」(ロシア・グルジア戦争)で、一時的に話題にはなったものの、その後筆者が折々で切り取ってきた情勢分析(『JBプレス』参照)以外では、ジョージア情勢はメディアで継続的に取り上げられてこなかった。ウクライナで再起を図ったサアカシュヴィリ前大統領の活動も時折話題にはなるが、そもそもなぜサアカシュヴィリがウクライナで一時的とは言え「復権」したのか、この点もはっきりと事情を呑み込めていない読者も多いと思われる。そこは複雑な事情があるため、そこは別の機会に稿を改めたい。
まず、現在のジョージア国内政治を考える上で、次の3点を確認しておきたい。
2012年の議会選挙でサアカシュヴィリ率いる与党「国民運動党」が敗れ、ロシアで巨万の富を築いた大富豪ビジナ・イヴァニシュヴィリによる反サアカシュヴィリの現政権与党「ジョージアの夢」政権が誕生した。1年間の移行期間を経て、2013年秋にサアカシュヴィリが大統領職も退き、前述した「ジョージアの夢」が推すマルグヴェラシュヴィリ大統領が当選したことで、サアカシュヴィリ派は完全に野に下り、ジョージア国内での権力を喪失。それだけではなく、前首相の収監、そしてサアカシュヴィリ自身も事実上国を追われる身となったのであった。
次に2点目の前提として、サアカシュヴィリは強力な大統領制のもとでイニシアティブを発揮して、最終的にはロシアとの戦争まで起こったが、実はすでにサアカシュヴィリの時代から、大統領権限を弱めて首相制への移行への動きが始まっていた。当時サアカシュヴィリは、大統領3選を禁じた憲法を変えるより、首相の権限を強めてこのポストに横滑りしようと考えていた節がある。いずれにしても、反サアカシュヴィリの現政権でもこの動きは続いており、2017年に行われた憲法改正(今回の選挙で選ばれた新大統領の就任後に発効予定)により、新大統領のもとでジョージアは議会制共和国に移行し、大統領の権限はより象徴的なものに縮小される。
そして最後に第3点目として、現与党「ジョージアの夢」政権は、政権発足当初の反サアカシュヴィリ連合といった色彩を薄め、創設者イヴァニシュヴィリによるワンマン指導の色が濃くなっていること、その一方で、サアカシュヴィリ派は分裂し、あくまでサアカシュヴィリの政治行動に従う勢力と、元国会議長ダヴィト・バクラゼらのサアカシュヴィリ元側近グループの2つに分裂していることが、現況を考える上で重要である。
大統領選挙の推移
このように、サアカシュヴィリ派の下野と分裂、一方で、与党も社会の広汎な支持を集めるというよりワンマンパーティー的な色彩を強める中、大統領職自体は権限が縮小され、直接選挙での選出も今回で最後とされた。
そして、これまで第2代大統領のシェワルナゼ、第3代のサアカシュヴィリはともに2期務めたが、2013年10月から現職のマルグヴェラシヴィリも、在職中に与党首相との軋轢がたびたび表面化し、今回、再選に向けた出馬を断念した。
結局のところ、政権与党「ジョージアの夢」は独自の候補者を立てることも断念し、次の項で述べる有力知識人家庭の出身である女性のサロメ・ズラビシュヴィリ議員を推薦することになった。
かたやサアカシュヴィリ派は完全な分裂選挙で、グリゴル・ヴァシャゼ元外相と、バクラゼ元国会議長がともに出馬して、その点では圧倒的に与党候補有利とも思われていた。
このように、次の6年間の国の顔を選ぶ選挙としては、比較的低調な選挙戦であったが、10月28日の投票日当日は、約3600の投票所で朝8時から夜8時まで投票が行われた。
有権者の数は351万8890名。最初の投票で有効投票の過半数を得た候補者がいれば、勝利が確定するはずであった。
なお、選挙管理委員会は最大20日以内に最終的な票数を確定しなければならない。もし過半数を得た候補がいなければ、中央選管が結果を公表した後、2週間以内に上位2候補による決選投票が行われると規定されている。
先祖は英雄
与党が推したズラビシュヴィリ候補は、ジョージア人で初めてヨーロッパの大学で博士号(法学)を取得したニコ・ニコラゼ(1843~1928年)の子孫にあたる。ニコラゼは生前のマルクスにも面会したことがある高名な知識人・社会思想家で、現在のジョージア国家にとって「国父」のように考えられている国民的作家で社会運動家イリア・チャフチャヴァゼとの親交もよく知られる。
このように、19世紀ジョージアの英雄を先祖に持つズラビシュヴィリであるが、1921年のいわゆる赤軍侵攻によってジョージア民主共和国が倒れた後、フランスに亡命した家系に生まれた。自身は、フランスのキャリア外交官の道を進み、駐ジョージアフランス大使を2003年からつとめたが、バラ革命(前述)後の2004年11月にサアカシュヴィリによって市民権を付与され、ジョージアの外務大臣に抜擢された。しかし、翌年にはサアカシュヴィリと袂を分かち、2016年から「ジョージアの夢」政権に近い独立派国会議員として活動していた。
ちなみに、『崩壊した帝国――ソ連における諸民族の反乱』(1981年、新評論)など邦訳も多い仏歴史学者エレーヌ・カレール=ダンコースも旧姓はズラビシュヴィリで、従姉妹にあたるそうである。
国家に対する裏切り
高名な亡命ジョージア知識人家庭に育ち、フランスとアメリカで高等教育を受け、フランス外務省の高級外交官としてのキャリアも積んだズラビシュヴィリ候補について、筆者の周囲でも、知識人の間では評判は上々であった(そもそもエリート家系は何らかの形でみなつながっている社会である)。
ただし、政治経験の乏しさか、選挙戦の最中、2008年の南オセチア戦争(前述)について、ジョージア側が戦端を開いたことを公の場で一部認めてしまった(筆者注:当時からジョージア側は、先に軍事行動を起こしたのはロシアであると主張し続けていた)。
これはあくまでサアカシュヴィリ前大統領の失政をなじる文脈での発言であったが、反対派はこれに飛びつき、この発言に抗議する大々的なキャンペーンを行った。
筆者はその選挙戦最中である9月、ジョージアに滞在したが、その際、あるテレビ局では政治番組でこの発言について電話アンケートを行っていた。結果は、この発言を国家に対する裏切りと評価する声が、実に9割を優に超して圧倒的であった。これは、もちろん大多数の声というより、反与党メディアの働きと伝え方の影響も大きい。アメリカ同様、ジョージアではテレビ局も政治的立場が極端に分かれているのである。
そうは言っても、どうやら、この失言はたいへん大きく響いたようだ。
日本時間の29日午前2時の速報(4割の選挙区の集計)では、ズラビシュヴィリ候補が40.2%、野党連合が推したサアカシュヴィリ派のヴァシャゼ元外相(ちなみに、夫人は日本でも有名なバレエのプリマドンナ、ニーナ・アナニアシュヴィリ)が36.35%であったが、2時間後には、約5割の集計でズラビシュヴィリ38.82%、ヴァシャゼ37.68%と拮抗する状況になった。そして、開票結果はズラビシュヴィリ候補38.64%、ヴァシャゼ候補37.74%と伝えられている。
与党のイラクリ・コバヒゼ国会議長は、当初はズラビシュヴィリ候補の勝利を確信するとしていたが、途中から、決選投票に進むことが確定的な情勢であることを認めた。
このように、与党候補がよもやの苦戦を強いられる中、サアカシュヴィリといったん袂を分かったバクラゼ候補(前出、元国会議長。今回の大統領選挙では1割程度の票を獲得)は、すでに決選投票ではヴァシャゼ候補支持を表明しており、サアカシュヴィリ派の攻勢が強まっている。
決選投票の日程は現時点では未定だが、選管規定により、12月1日までに行われる。
冒頭で述べたように、現憲法下では最後になる予定の大統領直接選挙は、ふたたびユーラシアの中で揺れ続けるジョージア国家の苦悩する姿をさらけ出したとも言えるし、一方で、民主的な選挙による「安定」ぶりも見せていると評価することもできよう。
いずれにしても、決選投票の行方が注目される。