【五木寛之×中瀬ゆかり対談】人生のピンチからの生還法
直木賞より植木賞
中瀬 小説家のキャラクターが濃かった時代、良くも悪くもおかしな人が多かったと言いますか。五木さんは今年、小説家としてデビューされて52年ですね。
五木 はい。32年、満州建国の年に生まれ、すぐに朝鮮へと渡り半島を転々とした。
中瀬 子供の頃はどんな本をお読みで?
五木 両親が教師で官舎に住んでいたので、周りに友達がいなかったんです。たまたま父が師範学校の図書館の管理をしていたので、鍵を借りて片っ端から色々と。『碧巌録』という、禅の入門書みたいなものも読んでいました。
中瀬 小学生で禅を……。
五木 まったく分からないんですけど。父親は国学関係でしたが、母親は文学趣味で、今でいうと林真理子さんみたいな、『放浪記』の林芙美子の小説も持っていて、もう手当たり次第に佐々木邦とか坪田譲治、山中峯太郎など、少年と年寄りの読むものをごっちゃにした読書体験でした。
中瀬 それから五木さんの苦労時代といいますか、引き揚げまでに2年位かかって一生分の苦労をしたと。
五木 その話をすると「可哀そうな子でござい」みたいで本当はいやなんです。敗戦後、母親が亡くなったり色んなことがあって、僕の戦後70年は、12、3歳で体験した歳月が全てを決している。未だにそこから出られずに、今日まで来ている感じですね。
中瀬 大勢が亡くなる中で五木少年は生き延びたわけですが、「俺は許されざる人間だ」というサバイバーズギルトの十字架を背負った。
五木 確かにサバイバルでは善い人は残れない。エゴが強く、人を押しのける強引な人間だけが生き延びる。トラックに3人乗れるとして5人が群がったら、先に乗った3人は後の人を蹴落とすからね。「お先にどうぞ」では絶対に帰ってこられないです。「善き者は逝く」という言葉がありますが、最近つくづくそれを感じて。引き揚げ者は全員悪人だと書いたら、ものすごいバッシングを受けたこともあります。
中瀬 52年に早稲田大学に入学。「小説家になるには早稲田の露文、しかも中退じゃないと」なんて言われたのは、五木さんの影響だと思いますが苦学生だった。
五木 ええ、それこそ色んなアルバイトをしました。肉体労働やセールス、業界紙の配達もやりました。
中瀬 製薬会社などに血を売ると、ギャラがよくて1回で1週間食べられたと。
五木 看護師さんに「先週も来たでしょ」と言われてしまって。続けてやれば2週間食べられましたから。帰りに牛乳1本貰うんですけど、「赤い血を抜いて白い牛乳を飲むのかぁ」って、すごい違和感を覚えましたね。
中瀬 羽田空港でも働いていたそうですね。
五木 サンフランシスコ講和条約で、吉田茂首相が訪米する時にサンドイッチを作ったりした。アルバイトの中に過激派の学生がいて「この食べ物にバイ菌をばらまけば、全員死ぬな」って言っていたのを憶えている。
中瀬 ちょうど今、朝日新聞の「人生の贈りもの」という連載で、若い頃のお写真が幾つか紹介されています。照れずに仰っていただきたいんですけど、当時ハンサムだと言われてましたよね?
五木 ええ、でも作品の評価の上では損だったな。そうでない方が評価が高い(笑)。
中瀬 「顔で書いている」みたいに捉えられると、やっかまれますもんね。
五木 でも「顔で書いています」って居直ってたから(笑)。
中瀬 モテモテだった。
五木 そんな暇はなかったんですよ。当時は「小説新潮」、「オール讀物」、「小説現代」の3誌で百何十万部という時代。毎月書いていましたから本当に大変でした。芥川賞作家は受賞して10年後に名作を書けばいいけど、直木賞は、次の作家が登場するまで場を繋がないといけない。全力疾走する義務があると編集者から言われて、一生懸命書きましたね。
中瀬 じゃあ、モテを享受している暇はなかった。
五木 いやぁ、酷使されていたし、あの頃は金沢にいましたしね。素敵な街でしたが、「あんた、植木賞(うえきしょう)とったんだって?」って言われたことがある。兼六園なんかの植木の手入れをやる人は代々由緒ある人、謡(うたい)もやったりして尊敬されているんです。だから直木賞より植木賞(笑)。
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