誰にとっても「いい天気」とは限らない(古市憲寿)
NHKアナウンサーは「いい天気」という言葉を使わないらしい。理由は、それが「みなさま」にとって「いい天気」とは限らないから。
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たとえば気持ちのいい初夏の晴天。ほとんどの人にとっては「いい天気」だろうが、農家や雨具メーカーは早く雨が降って欲しいと願っているかも知れない。
逆の理由で、雨の日も「あいにくのお天気」とは言わないらしい。
実際はケースバイケースなのだろうが、さすがNHKだと思った。今年は自然災害が多かった。家に帰れない人の集まる避難所でかかるテレビは、おそらくNHKが多いだろう。たとえ今日の空は晴れていても、アナウンサーが「いい天気」と言って傷つく人がいるかも知れない。
葬式の朝、リストラを言い渡された昼下がり、恋人と喧嘩した夜。どんな人が、どんなシチュエーションでテレビを観ているかはわからない。だから最大公約数の「みなさま」に配慮するという方針は筋が通っている。
だが、あらゆる表現がNHKのようになる必要はないと思う。誰かを傷つけることを恐れ、配慮に配慮を重ねた表現は、ともすればつまらなくなる。
問題は、どこまでの配慮をするか。時に「配慮」は上から目線になってしまう。
政治学者の丸山眞男が、自身の入院経験をもとに書いた随筆がある。そこで丸山が説くのは、他者に対する安易な同情の危険性だ。患者という存在は、かわいそうな「弱者」だと思われがちだ。しかしそれは「患者だから安静にすべき」というお節介にもつながる。
問題は、現実には多様であるはずの「患者」を一緒くたにしてしまうことだ。本当は退院間近の元気な「患者」もいるし、末期だからこそ自由に過ごしたい「患者」もいる。それなのに「患者」を「弱者」というステレオタイプに押し込んで、彼らが自分の予想と違う行動を起こすと、「可愛さあまって憎さが百倍」の不寛容に転じてしまうのだ。
僕が『絶望の国の幸福な若者たち』という本を書いた時のこと。若者からの「私は幸せではない」という感想よりも、年配の学者や評論家からの批判がすごかったことを思い出す。彼らは若者を勝手に「弱者」だと思い込んでいたので、その弱者が幸せなはずがないと怒り始めたのだと思う。
「新潮45」のLGBT騒動の時も、外野のうるささに思想家の千葉雅也さんが不快感を表明していた。非当事者による、想像力を膨らませた勝手な非難。それが社会をよくする可能性までは否定しない。しかし、どこまで第三者が他者を代弁できるのだろう。
僕が何かものを書くときも、一つの基準はそこだ。できるだけ、お節介はしない。非当事者として口を出す時は、自分がお節介をしていることを忘れない。客観的なデータを示したりはするが、安易に「かわいそう」とか「共感する」とか言わない。本当は「これからも読者のみなさまに寄り添ったエッセイをお届けしていきたい」とか、NHK風の文章を書くほうが楽なんだけど。