タイガー「復活優勝」で蘇った「カプルス」の素敵な財産
今、米ゴルフ界で「復活優勝」と言ったら、それは9月のプレーオフ・シリーズ最終戦「ツアー選手権」で5年ぶりの勝利を挙げたタイガー・ウッズ(42)のあの見事な復活優勝のことを指す。
だが、いつの時代にも、印象的な復活優勝というものは、いくつか見られた。その中で、私が一番心を動かされた復活優勝は、フレッド・カプルス(59)が2003年に「シェル・ヒューストン・オープン」で挙げた5年ぶりの勝利だった。
ウイニングパットを沈めた瞬間、カプルスはバイザーのツバを下げ、溢れる涙を隠しながら男泣きした。嗚咽で肩を震わせながらその場に立ち尽くし、再び手に入れた勝利の味を涙とともに味わっていた。
カプルスが「もう一度、頑張ろう」と思い立つまでの道程も、そう決意してからの道程も、長く険しい日々だったことを大勢のファンも多かれ少なかれ知っていた。だからだったのだろう。あの場に居合わせたたくさんのギャラリーがカプルスの男泣きに、もらい泣きした。
ゴルフの世界は素晴らしい――そう思わせてくれたカプルスのあの勝利の場面は、あれから15年以上経った今でも私の脳裏に焼き付いている。
憧れの「ブンブン丸」
現代の若い世代のゴルフファンは、カプルスと聞いてもピンと来ないかもしれない。それもそのはず、カプルスの黄金時代と言えば、1980年代半ばから90年代半ばごろ。つまり、タイガー・ウッズ時代が到来する以前の話ということになる。
だが、当時のカプルスを眺めながらゴルフクラブを振った現在の中年・熟年以上の世代にとっては、カプルスは憧れの的だったのではないだろうか。
たっぷりめのオーバーサイズ風の着こなしが流行っていたあのころ、カプルスはダブダブの提灯袖が特徴的だったアシュワースのシャツに身を包んでプレーしていた。
その袖は、そのままスイングに入ると、ちょっぴり邪魔になったのか、邪魔とは言わないまでも気になったのか。アドレスに入る前に両腕をひょいと上に挙げながら、その袖をたくし上げていたカプルスの独特の動作は、ファンの視線を釘付けにした。
全米各地、いや世界各国のゴルフ場で、そんなカプルスに憧れ、彼のルーティーンを真似るゴルファーがどれほど多かったことか。何を隠そう、この私もその1人だった。
ルーティーンのみならずスイングも独特だった。いわゆるフライングエルボー(トップで右肘が浮く)風の動きを伴い、体の柔軟性をフル活用するしなやかなスイング。それでいて屈指のロングヒッターだったカプルスは、誰が名付けたのか、日本では「ブンブン丸」と呼ばれ、彼のスイングの連続写真は、あらゆるゴルフ雑誌の誌面を毎号のように飾っていた。
世界中のゴルフファンを魅了したカプルスは、まさに当時のスーパースター。私が渡米した1993年ごろはその絶頂期で、米ツアーの取材の現場では彼に話しかけるチャンスを見つけるだけでも大変だった。
どうやってそんなカプルスと外国人メディアの私が話せるようになったかと言えば、先に親しくなっていたデービス・ラブ(54)が仲介してくれたおかげだった。
少しずつ試合会場で挨拶を交わせるようになり、会話できるようになり、ついに「イエス」と言ってもらえた単独インタビューは、なんとも不思議な場所で実現した。
深夜のプールサイドで聞いた身の上話
カプルスが指定してきたインタビューの場所は、試合会場近くで彼が泊まっていた選手用のホテルの屋上だった。
「じゃあ、夜8時に屋上で会おう」
言われた通り、屋上で待っていると、Tシャツに短パン姿のカプルスが、カクテルグラスを手に持って現れた。
「あそこに座ろう」
プールサイドのサンデッキの上に、いきなり寝そべったカプルス。サンデッキはその横にもずらりと並んでいたが、私も寝そべると、話がしにくくなりそうだし、メモも取れないと思えた。仕方なく、寝そべっていたカプルスに寄り添うようにコンクリートの床の上に座り、ほとんど「はべる女」の体勢。
決して座り心地は良くなかったが、それでも居心地は最高だった。なぜなら、あの夜のカプルスは妙に饒舌で、長いこと、身の上話を聞かせてくれたから――。
そのとき初めて、スーパースターが秘かに抱えてきた知られざる苦労や苦悩の大きさ、深さを思い知った。
「大学のとき、夜逃げしたんだ」
話は、そこから始まった。ワシントン州シアトルで生まれ、カリフォルニアで育ったカプルスは、テキサス州の名門ヒューストン大学へ進学し、学生寮で生活していた。
カプルスの父親は息子がきっちり学士号を取得し、安定した職業に就くことを望んでいたという。だが、プロゴルファーになりたくてたまらなかったカプルスは、ある日、友達にも家族にも誰にも告げずに大学寮から脱走。なけなしの手持ちのお金で飛行機に飛び乗り、カリフォルニアの山間部に住んでいた遠い親戚宅に身を寄せ、そこで秘かに黙々とゴルフの腕を磨いたそうだ。
1980年の秋、「これからQスクール(予選会)を受ける」と父親に電話で伝えたら、いきなりガチャンと電話を切られてしまったという話を聞いたとき、それでもプロゴルファーを目指したカプルスの強い覚悟と意志が彼をスーパースターへ押し上げたのだと確信できた。
「まだ、やれそうだ。勝てる」
無事、Qスクールを突破し、1981年から米ツアーで戦い始めたカプルスは、83年「ケンパー・オープン」で初優勝を挙げて以来、次々に勝利を重ね、92年「マスターズ」を制してメジャーチャンピオンになった。
だが、1998年の「メモリアル・トーナメント」で勝利を挙げ、米ツアー14勝目をマークしたころから、持病の腰痛が悪化し、成績は徐々に下降していった。
その数年前に離婚した前妻が2001年、飛び降り自殺するという悲惨な出来事が起こり、カプルスはひどくショックを受けた。
再婚した妻が連れてきた幼い子供たちは、幸いなことにカプルスにとてもなついてくれたそうで、それは久しぶりに味わう家族団らんであり、ようやく訪れた心の平穏だった。
しかし、子供たちを可愛いと思うあまり、カプルスはゴルフに対するモチベーションを失い、成績はさらに下降した。
「試合に行こうとすると子供たちが『パパ、行かないで』と激しく泣いた。そんな子供たちを置いて、毎週毎週、転戦する生活に嫌気がさした。家族一緒に幸せに過ごすこと以上に大切なものはない。そう思った僕は、あのときゴルフをする意欲を失っていた」
引退を考えていたカプルスを立ち直らせたのは、再婚した妻だった。カプルスが知らないうちにスイングコーチのブッチ・ハーモンと連絡を取り、「夫を復活させてほしい」と依頼。2人を引き合わせ、やがて復活への取り組みが始まった。
ロングパターに持ち替えたのは、そのための序章。かつてのスーパースター、栄えあるマスターズチャンピオンのプライドを横に置き、地道に地区予選から挑戦して自力で「全米オープン」出場権を手に入れ、1つ1つ、表舞台へ戻るための努力を積み重ねていった。
そして2003年3月の「プレーヤーズ選手権」で久しぶりに優勝争いに絡み、10位に食い込んだカプルスは、18番グリーン脇にかがみ込み、目頭を押さえた。当時すでに43歳。
「まだ、やれそうだ。勝てる気がしてきた」
その自信が翌月のシェル・ヒューストン・オープン優勝につながった。カプルスのあの5年ぶりの復活優勝の背後には、そんな長い長いストーリーがあった。
引退宣言
復活優勝に至るまでのカプルスの5年間とウッズの5年間。どちらも長く、それぞれがいろんな山谷に遭遇した波乱の5年間だったのだろうと思う。
そんな日々を経て、戦いの場に戻り、優勝争いというハイレベルな輪の中に戻り、ついに復活優勝を遂げた彼らに共通しているものは何かと考えたとき、1つだけ、はっきり言えることがある。
ゴルフ一辺倒だったスーパースターが、家族や周囲の大切さに気付き、「人」を大事に想うようになったことで「人」から助けられ、復活できたことは、カプルスにもウッズにも当てはまる。
米ツアーの動きは驚くほど早い。ウッズ復活優勝で昨シーズンの幕を閉じたと思ったら、先週からすでに2018-2019年の新シーズンが始まった。
開幕戦の「セーフウェイ・オープン」(10月4~7日)にスポンサー推薦で出場したカプルスは、「マスターズを除けば、これが僕のレギュラーツアーのラストトーナメントになる」と、若者たちのツアーから退く意志を明かした。
ファンにとっては、ちょっぴり淋しいレギュラーツアー引退宣言。だが、カプルスの復活優勝が私たちに与えてくれた勇気と感動は永遠に心に刻まれており、今年のウッズの復活優勝が15年前のカプルスのそれを再び蘇らせてくれた。
すべては、ゴルフの世界の貴重な財産。それを少しでも日本のみなさんに知ってもらいたくて、この稿を記した。
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