出版に問われる普遍テーマ「利潤と文化」:土田世紀『編集王』
『まんが道』や『バクマン。』など、マンガ家が主人公の作品は多い。本欄でも第4回の今回、あるマンガ家の回顧モノを取り上げようと思い、担当編集者にもそう伝えていたのだが、思うところあって、最近再読した土田世紀の『編集王』(全16巻、小学館)について書くことにした。
これまで本欄はネタバレを極力避けて書いてきたが、今回は引用や筋の紹介が多い。「予告編を見ないで映画館に行く主義」の方は、先に作品を通読するのをお勧めする。マンガや出版に多少なりとも興味のある方なら、読んで損はない傑作だ。
「馬鹿どもの三平方の定理だ」
『編集王』は、青年コミック誌「週刊ヤングシャウト」の見習い編集者になったボクサー崩れの若者、桃井環八(カンパチ)を軸に、個性的な編集者や漫画家を描く群像劇だ。土田の持ち味である泥臭い人間ドラマの熱量とともに、『編集王』を傑作たらしめているのは、出版業界の構造問題に正面から切り込む大胆さだ。どんな状況でも「一番大事なものを無条件に最優先出来る屈強な男」であるカンパチは、業界の“常識”や悪しき慣習に抗い、あちこちで衝突や騒動を起こす。
作品を貫く「出版は文化か、営利活動か」というメインテーマは、カンパチの初仕事のエピソードで早々に提示される。
大物マンガ家、マンボ好塚は作品の質は落ちているが、ネームバリューで単行本の売り上げが安定しているため、編集部の打算で連載を続けることができている。担当編集者の本占地雪之丞は毎週、アシスタント任せで本人がペンを入れていない原稿をマネージャーの仙台角五郎から受け取る。本占地は本音ではマンガを「暇つぶし」と蔑み、流れ作業として編集者を嫌々やっている。
こうしたオトナの事情に反発し、カンパチは受け取ったばかりの原稿を突き返しに好塚宅に戻る。面白くないから書き直せ、と迫るカンパチに玄関先で応対する仙台は、自分の仕事はマンガづくりの質の向上ではなく、ビジネスとしての「数字の管理」と言い切る。そんなことでいいのか、と詰め寄るカンパチに仙台はこう答える。
「君の言う通り……マンガづくりは卑しい作業さ……買う奴が居るなら、売れる物は何でも売る。マンガ家は言ってみりゃ売春婦さ」
本作はマンガらしく、人物造形や利益至上主義の上層部と現場の対立といった構図は、文字通りカリカチュアライズされている。これは欠点ではなく、むしろマンガという表現形式の強みだ。小説やドラマではリアリティーの欠如という「穴」になりかねない強引なストーリーテリングが、土田の作風と相まって、出版業の抱える問題の本質を鮮明に抉り出すと同時に、ぐいぐいと物語に読者を引き込む力を生み出している。
作品の終盤には、「供給者の論理」からさらに踏み込み、「読者=需要」サイドの問題提起がなされる。作中、ほとんどの場面で部数拡大と収益至上主義の俗物として描かれる疎井一郎編集長の若き日の回想シーンがそれだ。まだマンガが出版社のお荷物だった時代、疎井は良質なマンガづくりの使命感に燃えていた。だが、好塚や仙台が絡むあるトラブルを通じて彼は変節し、こう漏らす。
「毎週毎週志のない作家と志のない仕事をして……そうやって出来たクズみたいな作品が読者には圧倒的に支持されて、毎週毎週応援のハガキが山のように届くんですよ。作家や編集部がバカなうちはまだ我慢出来ます……だけど読者に絶望しちまったら、もう何も信じるものがないですよ。作家・編集者・読者……馬鹿どもの三平方の定理だ」
需要に応え、利潤を追求する。企業として当然のことだが、出版業には他の営利企業と決定的な違いがある。「文化」を看板としていることだ。
「明日からソープランドでも……」
この「利潤と文化」が相反する交点として、『編集王』で繰り返し取り上げられるテーマは「エロ」だ。本作の『週刊ビッグ スピリッツ』掲載は1993年から1997年。当時はヘアヌード写真集がマンガと並ぶドル箱だった。
「エロ=利潤追求」を巡っては、こんな印象的な場面がある。
社内のお荷物、文芸部門の編集者の五日市が同期入社の社長に辞表をたたきつけるシーンだ。永遠の文学青年である五日市は、ヘアヌードに傾斜する経営への批判を展開する。
「出版なんて、もともとマトモに食えるような業界じゃなかっただろ!?」「一体いつから出版社は、本の虫から本を取りあげて、そろばんを持てって言うようになったんだ?」「だったら文化事業をタテに、エロ本でセコセコ稼がずに……明日からソープランドでも経営したほうが早えんじゃねえか!?」
火を噴くような五日市の言葉に、社長は「ハッキリ言って……売れる本の何が悪いんだ?」と嘯(うそぶ)くのだった。
文化と一緒に死ねるのか
「利潤と文化」というテーマには普遍性があり、連載終了から20年がすぎた今読んでも「古さ」は感じない。だが、出版業を取り巻く環境は、当時と今では雲泥の差がある。
まず、当然だが、本作にはAmazonが存在しない。書店は新刊の洪水をさばくのに四苦八苦しているという描写はあるが、さほど悲壮感はない。最終盤に出版大手を買収する「黒船」として登場するのは、香港返還(!)をにらんで事業多角化を進める華僑系財閥だ。
書店に悲壮感がないのは、連載当時が「本屋」の最盛期だったからだ。出版物の国内推定販売額は1996年に約2兆6600億円でピークアウトし、2017年には約1兆3700億円と市場規模はほぼ半分になっている。街の書店が減り、生き残った店舗でも「とにかく売れ筋の新刊を並べる」という形で「棚」が荒れていることは、今さら私が指摘するまでもないだろう。
『編集王』の「出版社がそんなに儲けてどうするつもりだ」という問題提起は、出版不況の今、業界人には悪い冗談のように響くだろう。香港財閥の御曹司(なぜか関西弁を使う)との公開討論会の場面で、「そこまで『出版は文化』やって言い切るんなら」「おめーら、文化と一緒に死ねるゆうんやな?」と問われ、疎井は「もちろんだ」と即答する。当時、これは「仮定の問い」でしかなかった。今やそれは、出版に誠実に携わろうとする誰もが逃れられない切実な問題になっている。
「至福の場所」ではない
私は本と書店が好きだ。小学校に上がったころから、書店や図書館なら何時間でも過ごせる子供だった。今でも、児童書コーナーやなじみのない分野の専門書が並ぶ棚でさえ、そこに良書がある限り、手に取って眺めているだけで幸せな気持ちになれる。
だが、いつごろからか、書店内には禍々しい空気を放つスポットが増えた。私は表現の自由としての「エロ」には寛容な人間だが、幼児ポルノまがいの本が目立つ場所に堂々と平積みされているのは、見るに堪えない。パラパラとめくるだけで底が知れる自己啓発本。薬事法なら一発アウトの断定的な表現で怪しげな民間療法を喧伝する健康本。信者ビジネス化した、二番煎じ、三番煎じのビジネス書。そして政治・経済のジャンルで「売れ筋」として定着してしまった、憎悪や恐怖を煽る書物。
昔から、そんな本はあった。そうしたオーラを発する一角だけ、鼻で笑って通り過ぎればよかった。だが、今、それは、ときに無視できないほどの腐臭を本屋全体に放っている。
「利潤と文化」のバランスは、「貧すれば鈍する」という使い古された言葉の通り、悪い方向に傾いている。昔ほど、私にとって書店は「至福の場所」ではなくなった。
「たましいを、下げないように……」
マンガの話に戻ろう。この後は、ネタバレの度合いが一段と高まることを先に付記しておく。
『編集王』の最終シーンでは、手塚治虫をモデルとした「マンガの神様」が、若きマンボ好塚が住む「トキク荘」の一室を訪れる。担当編集者の疎井が同席するなか、あがったばかりの生原稿に目を通した後、「神様」は好塚を同じ道を歩む表現者として認め、こう語りかける。
「たましいは……肉体とも感情とも別の……僕等の気付かない所にあって……試練の時にのみ、反応し、成長するものだと思います」「たましいを、下げないように…その事だけを…僕は競いたいのです……」
試練こそ成長の機会、というのは陳腐かもしれない。
だが、文化の担い手としてその志がなければ、「もともとマトモに食えるような業界じゃなかった」出版に、未来はない。
土田は、詩や歌詞を作中に効果的に挿入する作風で知られる。
少し長くなるが、最後にこの作品で最も強い印象を残す、宮沢賢治の『春と修羅 第二集』の『告別』からの一節を引用したい。
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
(中略)
おまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
(中略)
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
(中略)
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ
(新潮文庫『新編 宮沢賢治詩集』より。『編集王』の引用に合わせて中略した)
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