本誌が聞いた入院直後の肉声は… 樹木希林が本木雅弘に託した死に場所
「当たり前の生活を」
実際に“がん公表スピーチ”の後、樹木は本誌にこう答えていた。
〈転移したところは一応、ピンポイントの放射線照射で治療しました。だけど医者から「あなたはもう“全身がん”だから、この後もいつどこへ出て(発症して)も不思議はないですよ」って言われたのです〉
〈あたしは薬には用心深くて、風邪薬でもなるべく飲まないようにしている。抗がん剤で髪の毛が抜けたり、生活の質を下げてまで治療するのはどんなものか、と思ってね。食べたいものを食べて、飲みたいものを飲んでという、当たり前の生活を送りたいのよ〉
そうした結果、
「14年1月には、その年のアカデミー賞に先立つ会見で『昨日の治療で終わり』と、突然の“終了宣言”をしました。で、そのまま無事に司会も務めることになったのです」(同)
樹木はこの当時も、
〈(全身がんを告白した)昨年も、受けた仕事はキャンセルしていませんよ。そうならないように治療も計算しているわけだし、結局“命が先かアカデミー賞が先か”となって、後者となったってわけよ〉
気丈に言い放ちながらも、
〈死と向き合いながらの生活は、自分を取り巻く周りの反応が興味深いね〉
と、きわめて含蓄に富んだフレーズを口にしていたのだった。
先の記者が続ける。
「本人は、イベントの場などでたびたびがんをネタにして『遺作になることを望まれている』『死ぬ死ぬ詐欺みたい』などと、持ち前の開けっ広げな言い回しで聴衆を沸かせてきました」
が、長年にわたる闘病は、静かにかつ着実に体力を奪っていった。
たとえば今年4月、本誌の取材に、
〈最近は元気でもないよ。3、4日前にロサンゼルスに行って帰ってきたら、くたびれちゃって……。新しい仕事はしてないの。実のある仕事じゃなくて、映画宣伝とか、他の人ができることをやっている感じ。つらいことはつらいのよ。もう75歳だし、勘弁してもらいたいんだけどね〉
毒舌は鳴りを潜め、珍しく弱音を吐く場面もみられたのである。先の関係者が明かす。
「希林さんは、がんと付き合っていく中で自らの『死に場所』を心に決めていました。それは、家族で長年過ごしてきた自宅だったのです」
それを裏付けるかのように、彼女はこんな言葉も漏らしていた。
〈あたしのがんがもし簡単に治っちゃってたら、もう少し野放図に生きていたんじゃないのかしら。まあ、今でも十分に野放図ですけど。やっぱりちょっとは謙虚になってるんですよ。婿の本木さんは映画で『おくりびと』もやっていますから“お義母さん、どこで死にたいですか”って聞くんです〉
最期は希望に沿って、慣れ親しんだ住まいで静かに眠りについた。余人を以て代え難い演技派の、一世一代の舞台納めだった。
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