優等生よりも不良や「おバカ」が持て囃される風潮への違和感 ドイツの教育制度を見てみると

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元不良自慢は許されるのか

 どういうわけだか、子どもの頃からずっと真面目な人よりも、かつてはグレていたのに更生した人のほうが持て囃される風潮には根強いものがある。「元不良」「元総長」といった経歴の芸能人、タレントが昔の武勇伝を語っても、微笑ましい話として受け止められ、下手をすると美談とされるのだ。実際にはその蛮行には被害者や犠牲者がいるはずなのだが、そのへんは特にテレビでは軽視されがちだ。

 似たような現象は、「おバカ」に関しても見られる。テレビの世界では、勉強が出来ないこと、知識がないこと、敬語が使えないことも、「おバカ」というネーミングによってあたかも魅力のように持て囃される傾向がある。

 こうした風潮に疑問を抱く「普通の人」「真面目な人」も少なからずいるのだろうが、そういう「普通で真面目な意見」は面白みがないということか、あまり相手にされない。

 ドイツ在住のライター、雨宮紫苑氏も、優等生の肩身が狭いという風潮に疑問を抱く一人。子どものころから、「マジメ」を軽視する風潮に違和感を抱いていたが、海外での生活を経て、さらにその違和感は大きくなったようだ。

 著書『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』の中で、雨宮氏はこの問題を教育問題と絡めて考察している(以下、引用は同書より)。

「わたしは小さいころから本が好きで、漢字字典が大のお気に入りという変な子どもだった。博物館にもよく足を運んでいたし、夏休みの宿題は7月中に終わらせていたタイプだ。だから、大人からは『マジメだね』と言われることが多かった。でも友だちの前で『マジメ』と言われるのがとても嫌だったことを覚えている。マジメ=ガリ勉でかっこ悪いという認識があったのだ。

 なぜマジメ=恥ずかしいと思っていたのかというと、日本では優等生タイプを妙に貶めたがる傾向があるからだと思う。

 たとえば、最近東大生が出演するテレビ番組が増えている。そこでは、『東大生なのにかわいい』だとか『東大生なのにオシャレ』というような、『東大生はブスでダサいガリ勉ばかり』という前提に基づいた偏見あふれるコメントが平気で放送される。

 一方で、おバカキャラの芸能人がしょっちゅうテレビを賑わせている。最低限の敬語も使えず、義務教育で習うような内容すら頭に入っていないのに、それが『気取っていない』とウケるのだ。これがわたしには、不思議でしょうがない。教育を受けさせる義務がある日本で掛け算ができない人がいるのなら、家庭環境や学校のサポートが厳しく追及されるべき案件じゃないだろうか。それなのに、なにをのんきに笑いのネタにしているのだろう。

 ただ、こういう傾向は今に始まったものではない。たとえば、アニメで瀕死の敵が助けを求めているシーンがあるとしよう。だれかが『罠かもしれないから様子を見よう』と言う。それに対し『それじゃ間に合わない』と助けるキャラがいる。

 前者の発言はだいたい優等生のリーダータイプで、後者はヤンキータイプと相場が決まっている。なんだかよくわからないが、人としての思いやりがあるキャラというのは、優等生ではなくヤンキーキャラが多い。

 小説やアニメの世界では、優等生=他人を注意する面倒な性格、知識をひけらかす鼻持ちならないインテリ野郎、といったキャラ設定される。そういった鼻持ちならない優等生の鼻を明かすのは決まって劣等生で、最終的に落ちこぼれがのし上っていくストーリーが好まれる。それ自体が悪いわけではないが、ちょっと劣等生びいきがすぎるんじゃないだろうか。

(略)

 勉強ができる人を不当に評価しない風潮には、どうしても違和感がある。学歴だけがすべてではないにせよ、ギターがうまい、オセロが強い、足が速いといった強みとおなじように、勉強ができる、博識であるということだって十分評価されるべきだろう」

できない子に優しすぎる日本

 もちろん「ワル」に憧れ、「優等生」をからかう傾向は日本独自のものではない。しかし、日本の場合、その背景には教育制度の問題もあるのではないか、という仮説を雨宮氏は立てている。

 日本の教育は、「できない子」に優しすぎる。そこに原因があるのではないか、というのである。

「不登校でも小中学校は自動的に卒業できるし、高校は義務教育ではないにもかかわらず、宿題をせずテストが赤点ばかりのクラスメートも進級できていた。

 大学だって、留年しそうな先輩が教授に泣きついて補助レポートという名の走り書きで単位をもらったり、救済処置として教授がテストに『この講義の感想を書け』なんて問題を設けていたりした。

 日本の学校は『できない子』に合わせ、教師は落ちこぼれが出ないように腐心する。その結果、最低限の教養は学校で、偏差値アップは塾で、という棲み分けになってしまったのかもしれない」

 このような手厚さは、決して世界標準ではない。

 ドイツでは、日本でいう小学生の時から成績によって進学先や将来がかなりシビアに決まってしまう。ドイツの教育制度では、子どもは4年制の小学校に通ったのちに、主に3つのコースを選択することとなる。「ギムナジウム」「実科学校」「基幹学校」の3つである。

「ギムナジウム」(8~9年制)は日本でいう中高一貫校に近いイメージ。

「実科学校」(6年制)は、卒業後、上級専門学校に進む人が多い学校。ここで好成績を修めて「ギムナジウム」に編入することも可能。

「基幹学校」(5年制)の卒業生は、そのまま職業訓練を受けながら働くことが一般的だ。

 10歳の時の成績で、将来はかなり決まってしまう。といっても、実のところその年齢での学力差はたかが知れているので、親の学歴が強く反映されるようだ。

 さて、大学に進むには「ギムナジウム」を卒業するというのが、スタンダードだ。しかし、が、2017年度を見るとギムナジウムに進学できたのは全体の44・2%。つまり普通に大学に進めるのは全体の半数にも満たない。

 日本の場合、高校卒業者が全体の9割を超えているのだから、大学への門戸は段違いに開かれているといってもいいだろう。さらに日本の場合、大学の卒業が諸外国よりも容易だというのはすでによく知られている。

勉強が向かない子にどこまで無理をさせるか

 日本人にとって、ドイツのような教育制度は厳しいと感じられるかもしれない。しかし、進学、入学、卒業が厳しいということは、学校の成績への信頼度を高めることにもつながる。「誰でも高卒・大卒」ではないということは「高卒・大卒」という経歴には一定の重みがあるということになるのだ。

「ドイツでは学校成績への信頼度が高いから、子どもたちは学校の勉強をしていればちゃんと社会で評価される。できない子に合わせることもないので、稀ではあるが小学生でも留年する。カネを出して塾に行く子は基本的に、学校の授業についていけていない落ちこぼれの生徒だ」

 日本式の「落ちこぼれを作らないようにしよう」という考え方にも利点はあるだろう。が、雨宮氏はむしろそれは勉強ができない子にも良くないのではないか、と問題提起する。その真意を改めて聞いてみた。

「冷徹に聞こえるかもしれませんし、程度の問題はあるでしょうが、学校が勉強嫌い、できない子に合わせてしまうと、勉強が好き、得意な子どもが損をしますよね。できる子たちがさらなる勉強をしたければ塾に行かなくてはいけなくなり、親の経済力が子どもの学習環境に大きく影響してしまいます。

『教育の機会均等』を掲げてチャンスを与えることは重要だけど、学ぶべきことを学ばずに卒業して進学する生徒がいる一方で、マジメに勉強している生徒が不利益を被るのはちょっとヘンなんじゃないか、とモヤモヤします。

 勉強が苦手、したくない子に、全体が合わせる必要があるのでしょうか。勉強が苦手なら留年や転校をして自分のレベルに合った教育を受けたほうが、本人のためにもなると思います」

 元不良やおバカを持て囃す風潮も、考えていくと意外と深い問題が背後にあるようなのだ。

デイリー新潮編集部

2018年9月25日掲載

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