私は娘の育て方を間違えた! 「大塚家具」創業者が吐露した“親ばか” 悔恨記

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毎日一緒に昼食を

〈勝久氏には2男3女があり、第1子の久美子氏は一橋大卒業後、富士銀行を経て1994年、大塚家具に入社。営業畑でなく、企画や広報などを担当した。そんな娘を、父はどう見ていたのか。〉

 久美子が入社したのは、ちょうど私がアメリカ家具の買い付けを始めた頃で、有明ショールームの開店など、大塚家具の礎が作られたといえる時期でした。同時期に入社した長男が営業畑を歩んだ一方、久美子は管理畑。方向を誤ったのは、営業の現場にあまりいなかったことも関係しているのかもしれません。

 04年に会社を離れる際、久美子は「まだまだお父さんも元気そうだから私がいなくても大丈夫だね」と、笑顔を見せていた。私も外の世界で頑張る娘を全面的にバックアップしてきたつもりでした。だからその5年後、久美子が「もう一度、大塚家具で頑張りたい」と言ってきた時には快く迎え入れ、私の後継として社長に指名したわけです。

 意見が食い違うこともありましたが、その頃は「会社を良くしようとしているのだろう」と考えて疑わなかった。毎日、昼食も一緒に食べていたし、コミュニケーションは取れているつもりでした。

 ただ、久美子が社長になってから業績は下がり続け、14年7月、私は会長のまま社長に復帰します。正直、会長時代は権限が一切与えられておらず、取締役会で議題を提案するにも「動議」を掛けなければならないような状況。経営者として40年、動議なんて手法は、この時に初めて知りました。

〈父娘の軋轢は、メディアで散々「親子喧嘩」と囃し立てられてきた。〉

 世間からそう捉えられたのが一番の痛手でした。経営手法の正当性も何も主張できないからです。それまで親子仲が悪いなんて思ったことは一度もありません。子どもの頃も毎年のように一緒に旅行していたし、仕事場にもよく連れて行ったものです。

 たとえば、投資家向け説明会などに久美子や他の子たちを連れて参加していたし、正月も2日から、一緒に店舗へ挨拶回りをしていたくらい。79年3月に津田沼ショールームが開店した時は、オープニングセレモニーの日を久美子の11歳の誕生日に合わせ、一緒に祝ったこともありましたね。

 私は子どもたちの将来に口を挟んだことはありませんが、久美子は、小さい頃から会社の将来を考えてくれていた。5人の子が成長したら大塚家具を五つの子会社に分割し、それぞれ受け継がせようと考えていた時期もありましたが、久美子は反対していたのです。「家族みんなで会社を支えていきましょう」って。

 それが今の大塚家具は、私にとって何の魅力も無い会社になってしまいました。久美子も経営方針を誤ったことは、早々に気がついていたと思います。だって、無借金の会社が倒産するなんて考えられないでしょう。

 でも、周りに抗えず変えたくても変えられない。プロキシーファイト以降、久美子とはもちろん、向こうについた3人の子たちとも全く連絡が取れない状態が続いている。私のもとに相談に来てくれれば良かったのに、それもままならない状況だったのでしょう。

 商売を知らない社外取締役や社外監査役など、うわべだけの“ガバナンス”に呑まれてしまったのに、それが評価されて久美子が社長になったのだから皮肉なものです。親ばかに聞こえるかもしれませんが、あの子は信頼する人間を見誤ったとしか思えない。何故、ああなってしまったのか……。

 今でも毎週のように、大塚家具を辞めた社員が匠大塚の門を叩いてくれています。全員を救ってやることは出来ないかもしれませんが、うちで雇える限りは雇っている。彼らも気を遣ってか、娘の話は口にしませんけれどね。

 久美子たちの健康も心配ですが、ともかく従業員のためにも「匠大塚」を大きくしなければならない。西武百貨店の跡地を利用した春日部の店舗は、倉庫も兼ねた大型ショールーム。ぜひ足を運んでほしいです。

週刊新潮 2018年9月20日号掲載

特集「私は娘の育て方を間違えた! 『大塚家具』創業者が『親ばか』悔恨記」より

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