大坂なおみに「GT-R」をプレゼント、日産“女性専務”と星野リゾートの関係

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日産の“V字回復”に大貢献

 星野専務は小学校4年生まで九州で生活していた。それが父親の仕事の関係で東京に引っ越したことなどから、中学受験にチャレンジする。

 数校に合格し、慶応義塾中等部に進学する。慶応義塾女子高校を経て、慶應大学経済学部を卒業。1983年に日本債券信用銀行(現・あおぞら銀行)に入行を果たす。ちなみに男女雇用機会均等法は85年の制定だ。

 最初の配属先は国際金融部。海外支店の勤務を志望するも、「女性は無理」と却下される。そのために86年に退社し、アメリカのノースウエスタン大学ケロッグ経営学大学院に入学。88年にMBA(経営学修士)を取得する。

 帰国後は就職活動に挑むも苦戦。辛うじて社会調査研究所(現・インテージ)に採用される。ご本人は産経新聞のインタビューで「契約社員でした」と振り返っている。

 だが腐ることなく、精力的に論文を発表。企業の担当者から注目を集め、仕事の依頼が舞い込むようになる。そして2000年から日産の仕事を引き受けるようになった。

 その過程でマーケティングに関する意思決定や組織の理想図を提案すると、当時のゴーン社長に1対1で報告を行うことが決まる。当時は銀座にあった社長室で結果を説明すると、いきなり「君が必要だ」と入社を依頼されたという。

 02年に入社して市場情報室を担当すると、06年には執行役員、14年には常務執行役員、そして16年に専務執行役員、と社内ピラミッドを猛烈な勢いで駆けあがった。当時の様子を、先ほどの週刊新潮の記事から一部を引用しよう。「専門誌記者」は以下のように指摘する。肩書や数字などは全て当時のものだ。

《「星野さんは“男性が車を購入する際、妻や恋人の意見を重視する”との分析結果から、女性顧客重視を提言しました。そこで女性が喜ぶ車体のカラーバリエーションを増やすなどした結果、販売台数が増加。日産の“V字回復”に貢献したのです」
 日産で初の女性専務執行役員になった星野氏は、国内営業本部とマーケティング本部でトップの片桐隆夫副社長を補佐する。
「星野さんは、私生活も順調です。夫は、全国32のリゾート施設を運営する『星野リゾート』の星野佳路社長。出産直後、彼女は子供をベビーシッターに預けて、軽井沢の自宅から当時銀座にあった本社まで新幹線通勤をしていました」》

 夫婦のなれそめについては、これも先に紹介した産経新聞のインタビュー記事から引用させていただこう。

《知り合ったのは中学生の時で同じクラスでした。大学も経済学部でクラスは違いましたが、すれ違うと「おう」という感じで、昔から面識はありました。今も「こういうコマーシャルどう思う」とか、お互いに相談することはあります》

 仕事内容や役職から考えれば当然だが、夫婦共に極めて出張が多いのだという。読売新聞の電子版「YOMIURI ONLINE」の連載「達人たちの本棚」で、15年6月16日に星野佳路社長が登場。夫婦生活について語っている。

《「中学生になったばかりの息子がいますから、夫婦どちらかが必ず家にいることが絶対条件です。1人にさせてしまいますから。だから、家内と出張する日が重ならないように調整しています。だから、東京にいるときは朝食も夕食も作りますよ。保育園から小学校低学年の時は今よりもっと時間調整が大変でしたね。保育園にも私が率先して迎えに行っていました」》

 そして週刊新潮の記事は、以下のようにして結ばれている。星野専務がよく口にするという言葉を紹介したのだ。

《「一番になれることを見つけて、認知されるのが大切。日本で2番目に高い山は誰も知らないでしょう」
 2位では満足しない星野氏。いかにして“巨人”トヨタに挑むのか》

 もちろん大坂選手も、2位では満足しないタイプだ。大坂なおみと星野朝子。生まれも育ちも境遇も全く異なる。だが内に秘めた闘志など、共通するところも極めて多いようだ。

週刊新潮WEB取材班

2018年9月21日掲載

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