7月に死去「浅利慶太」氏、28歳年下の未亡人が相続する遺産は30億円以上!?
弟子も後継者も残した“ガリバー”
巨星の評価は、往々にして相反する。浅利慶太も代表的人物の一人だろう。7月13日に悪性リンパ腫で死去。1933年生まれの85歳だった。劇団四季を創設し、ミュージカル「キャッツ」「ライオンキング」などを手掛けた演出家だ。
***
速報羽生結弦との「105日離婚」から1年 元妻・末延麻裕子さんが胸中を告白 「大きな心を持って進んでいきたい」
市村正親(69)、鹿賀丈史(67)、石丸幹二(53)といった不世出の名優を輩出。質の高い演劇空間を持続しながら、なおかつ抜群の集客力も実現した。チケットの予約システムやロングラン公演なども確立し、日本の“ショービジネス”全体に多大な貢献を果たした。まさに稀有な演劇人と言えるだろう。
だが、「商業主義に毒された、拝金主義の劇団」との批判が根強かったのも事実だ。例えばウィキペディアは、浅利の“原点”を高く評価する一方、成功を収めてからの筆致は相当に意地悪なものになっている。
若き日は日本共産党に入党、50年代前半の武装闘争時代も経験している。だが政財界の人脈は極めて広く、“政商”と形容されることも多かった。
こうした相反する様々な要素について、『李香蘭 私の半生』(新潮文庫)を山口淑子(1920〜2014)と共著した藤原作弥は「[時評・ウェーブ]藤原作弥/浅利慶太氏を偲ぶ」(電気新聞18年8月31日付)で以下のように指摘した。
《浅利氏は青年期に共産党を脱党、佐藤栄作、中曽根康弘の“演出”役をつとめるなど保守派といわれたが、根からの戦争絶対反対論者、『李香蘭』のあとソ連強制収容所の実態を描いた『異国の丘』、インドネシア独立問題とBC級戦犯問題を扱った『南十字星』を製作、劇団四季オリジナル・ミュージカル『昭和の歴史三部作』を完成させている。
もともと2代目市川左団次を大叔父に持ち、父・鶴雄は小山内薫らと築地小劇場を創設した演劇人の家系。周知のように慶応大在学中に劇団四季を結成したのが1953年。アヌイ、ジロドゥなど現代フランス戯曲家の作品を日生劇場で次々と上演して注目された。当時、仏文学生だった私も若い観客の一人だった》
こうした原点があったからこそ、浅利は日本演劇界のガリバーとして君臨し得たのかもしれない。上記のように浅利は中曽根康弘(100)の盟友として知られた。同じく中曽根と関係の深い、読売新聞グループ本社代表取締役にして主筆の渡邉恒雄(92)や、セゾングループ代表の故・堤清二(1927~2013)も、東大在学中に共産党に入党、除名された過去を持つ。
この“巨人”は、死して財産も残した。演劇界では、その金額も話題だという。あるベテラン演劇ライターが明かす。
「今から4年前、浅利氏は病気を理由に劇団四季を離れ、個人事務所の『浅利演出事務所』を活動の足場としました。その翌年、劇団四季が所有していた東京都内にある稽古場、長野県にある別荘と山荘を購入されています。建物は古くて資産的な価値は低いとされるようですが、土地の評価は高く、購入額は相当なものです。稽古場が約3億円、別荘が5200万円、山荘が2000万円、合計で約3.7億円。さらに、自宅マンションが1億2500万円だとされています」
[1/2ページ]