「生産性」発言の杉田議員に税金を投入していいのかどうか(石田純一)
石田純一の「これだけ言わせて!」 第2回
すでにご存じとは思うが、LGBTの人たちに対して、〈彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか〉と、雑誌で堂々と発言した国会議員がいる。『新潮45』8月号に「『LGBT』支援の度が過ぎる」という記事を寄稿した自民党の杉田水脈衆議院議員である。
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世の中には、やむにやまれぬ理由で子供ができない人も多い。杉田議員の主張はそういう人をおおいに悲しませ、憤慨させた。国会議員の仕事とは、国民の最大幸福を志すことではなかったのか。ところが、杉田議員は一部の国民を「生産性」を理由に切り捨てようと訴える。そもそも、人間を「生産性」という尺度で測るのがどうかしているが、それ以前に、彼女の主張は完全に論理破綻している。LGBTの方々のなかには、事業や活動で多くの収益を上げ、高額を納税している方もいる。そういう人は、仮に彼女の言う文脈で考えたとしても、国民全体のなかでも「生産性」が高いはずなのだが。
杉田議員には想像力も、包容力も、人を思いやる気持ちもない。人としても政治家としても、あまり質がよくないと言わざるをえない。そういう国会議員に税金を投入することが果たしていいのかどうか――。心底そう思ってしまう。ところが、残念ながら、この人は前回の総選挙で小選挙区では立候補せず、自民党の比例中国ブロックで選出されている。比例区では、彼女がどんなにとんでもないことをしても、容易には落選させられない。困った問題だ。
そもそも国家とは、国民のためにあるものだろう。一方、最近、右派の政治家たちの多くは、国家のために国民がいると考えているから、人の価値を「生産性」で推し量ったりしたりするのだろう。そんなトンデモナイ主張に対して、自民党の初期対応もまずかった。二階俊博幹事長は「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考え方がある」と述べたが、杉田議員の主張は人生観ではなく、偏見であり、マイノリティに対する奢りである。結局、自民党は彼女に対し、「今後、十分注意するように指導した」だけで、処分をしなかったそうだが、具体的にどう注意したのか、世間に公表すべきだと思う。
かつて中曽根康弘元首相は、「政治というものは文化を守るためにある」と言った。見識がある言葉だと思う。「○○は文化」という、あのゴシップと結びつけて言っているわけでは、もちろんない。国民の夢とか、嗜好とか、生活とか、そうしたすべてを守るためにこそ政治があるのだ――という訴えに、強く共感するのだ。
ところで杉田議員は、安倍晋三総理と近いと聞く。総理の肝煎りで政界入りしたようだが、だったらお子さんがおられず「生産性」がない(?)総理夫妻に、どう釈明なさるおつもりなのだろうか。