ドレスコード崩壊? 伝統も温暖化には勝てない「オペラの祭典」(古市憲寿)

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 ドイツのバイロイト音楽祭へ行ってきた。ワーグナーのオペラが現代風の演出で披露される祭典だ。あるオペラ好きから言わせれば「史上最高の甘美な拷問」。演出が難解なことに加えて、劇場には字幕装置もない。予習なしに行くと、全く意味がわからないというのだ。

 場違いな僕が行くことになったのは、音楽家の三枝成彰さんに誘ってもらったから。音楽界には「バイロイト詣」という言葉があるほど、そこでワーグナーの楽劇を観るのは価値があることらしい。

 オペラといって心配になるのはドレスコードである。ウィキペディアには「観客は基本的に正装であることが望ましいとされ、男性はタキシード、女性はイブニングドレスが多数派を占める」と書いてあった。タキシード? やっぱりそれくらい格式高いのか。

 結論からいえば、ウィキペディアに書いてあったのは誤情報だった。現地へ行ってみると、きちんとドレスアップしている人は数割程度で、ジャケットを着ていればマシ、中にはTシャツの人までいる有様だった。

 数十年にわたりバイロイト詣をしている三枝さんによると、かつてはもっと格式張った音楽祭だったらしい。タキシードを着るのは当たり前、客席で少し物音を立てただけで周囲からにらまれる。とにかく緊張感があったという。

 しかし今のバイロイトは違うようだ。僕が観た日も、前席の観客が大きな団扇をずっと使っていた。隣の席のドイツ人も、20年以上バイロイトに通っているというが、ポロシャツをラフに着ていた。一体、バイロイトに何があったのか。

 答えは温暖化である。このバイロイト祝祭劇場には、冷房設備がないのだ。かつてドイツは夏といえども涼しい日が多く、エアコンは必要なかった。しかし最近は世界的な異常気象の影響か、バイロイトでもとんでもない暑さに見舞われる。温度自体が拷問なのだ。

 事実、今年も日中は30度を超える日が続いていた。時には熱中症で搬送される観客もいるようだ。おしゃれとはやせ我慢と表裏一体だが、背に腹はかえられない。猛暑によって、どんどんバイロイトのカジュアル化が進んでいったらしい。

 そういえば、かつてヨーロッパの宗教的施設に行くときはTシャツや短パンは避けるように言われたものだが、最近は「水着禁止」の看板を掲げるところが多い。伝統も権威も、温暖化には勝てないのだ。

 今年の夏は世界的に異常気象に見舞われたという。日本での異常気象の一般の定義は、その場所で30年に1度しか起こらないような例外的な気象現象。しかし最近、この異常気象が頻発しているように感じられる。

 記録的な猛暑が毎年のように続けば、世界はどんどんカジュアルになっていくのだろう。あの金正恩でさえ麦わら帽子に半袖の白シャツという寅さんのような服装をしていた。温暖化は少なくとも、人々の見た目を平和(まぬけ)にしていくだろう。

 そのうち「全裸禁止」がドレスコードになるのかも。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2018年9月6日号掲載

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