金足農「吉田輝星」の連戦連投881球は美談か 「高野連」が金の卵を破壊する
悲鳴を上げた股関節
2回戦の大垣日大(岐阜)戦では13奪三振、3回戦横浜戦で14奪三振、準々決勝近江(滋賀)戦では10奪三振、そして準決勝の日大三(西東京)からは7三振を奪い、決勝までに計58個の奪三振を積み上げた。「優勝候補」を次々薙(な)ぎ倒していく吉田を中心とする金足農ナインの全力プレーに日本中が心を奪われていったのである。しかし、吉田投手の身体は、すでに3回戦から悲鳴を上げていた。
記者たちがそのことに気づいたのは、準々決勝、劇的な2ランスクイズで近江に逆転サヨナラ勝ちした8月18日のことだった。
「試合後、いつも強気の吉田君が、この日、朝起きた時に股関節が痛くてとても投げられると思わなかったことを明かしたんです。一時は、先発回避を監督にお願いしようとしたほどだったそうです。しかし、いざ投球練習をしてみると、なんとかいけそうだということで、この日の先発が決まったことが明らかになりました」(スポーツ紙記者)
先発回避寸前だった――それは報道陣にとっても衝撃の事実だった。この日の140球を加え、吉田の投球数は、それまでの4試合で計615球となっていた。まさにここが「限界」だったと言えるだろう。
私は、1日の休養日を挟んだ準決勝・決勝の吉田投手には、もはや痛々しさしか感じなかった。この才能溢れる選手が、ただ「潰(つぶ)れないで欲しい」と祈るしかなかったのだ。吉田投手は、それでも日大三に準決勝で9安打を浴びながらも最終回に最速148キロのストレートを記録して1失点(2対1)で競り勝った。
金足農は、公立の農業高校だ。野球学校とは違い、あくまで地元の球児が集(つど)うクラブ活動の一つとして存在している。高野連がいくら「複数投手」を推奨しようと、一般の高校には現実として不可能だ。甲子園とは、こうした中で頑張った多くの好投手たちが連投で潰れていった歴史でもある。
今も記憶に鮮明なのは、巨人などで打者としてプレーした沖縄水産出身の大野倫(りん)選手だ。平成3年夏、沖縄県大会から痛み止めの注射を打ちながら登板し、甲子園でも6試合すべてに完投し、計773球を一人で投げ抜いた。しかも、当時は準々決勝のあとの休養日もなく、3回戦から大野は「4日間での4連投」を強いられた。大会後、大野の右肘(ひじ)が疲労骨折していたことが判明。剥離(はくり)した骨片が手術でいくつも摘出されたことは、野球関係者の間では、今も語り草だ。
決勝戦直後の大野投手の右腕が完全に曲がってしまっていたことが、私には忘れられない。二度とピッチングができなくなった大野は、九州共立大学でもプロでも、外野手としてプレーしたことはご承知のとおりだ。吉田を見る時に、この大野選手のことが私の頭には常にあった。
過酷な連投を強いられた例は、今も大会通算83奪三振の記録を持つ板東英二(徳島商)をはじめ、近年でも斎藤佑樹(早実)や安樂智大(ともひろ)(済美)など、枚挙にいとまがない。
(2)へつづく
(文中敬称略)
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