メモに表れた“東條の浅薄な天皇観” 「東條英機メモ」が語る「昭和天皇」戦争責任の存否(保阪正康)
昭和天皇“手段”としての戦争
さて最後に、この「湯沢メモ」は、昭和史検証の中で一体どれほどの意味を持つのか、あるいは昭和天皇の戦争責任について何がいえるのか、今一度、考えてみることにしたい。
読売新聞の報道では、「湯沢メモ」の結論として、東條の視野の狭さについて触れ、さらに天皇の真意を理解できなかった東條の認識の甘さを識者の談話として紹介している。いずれも納得できる内容であった。
その結論を踏まえ、私なりの分析を次の3つにまとめたいと思う。
(1)昭和天皇の決意は3段階を辿るが、戦争決意はすでに「ハル・ノート」を受けとった段階で固まっていたと断定でき、この点で「湯沢メモ」を過大評価してはならない。
(2)東條の指導者としての資質がお粗末だったことを、補充する史料であった。
(3)内務、陸軍大臣も兼ねていた“東條首相の戦争”であり、戦争開始後の治安対策の一部はタテマエであった。
「あの戦争」は、国論が一致してのことではなく、改めて東條の思い込みと錯誤によって始まったと、このメモからは窺える。
では、昭和天皇の戦争の責任については何がいえるか。東條の思い込みと錯誤により戦争指導が行われたとはいえ、だからといって昭和天皇に戦争の責任が全くなかったと結論付けることはできまい。むろん“戦争の責任”の意味は、人により時代によって理解は異なるのだが。
ただ銘記しておきたいのは、昭和天皇はこの後、3年8カ月に亘る戦争の間、自らの“目的”のために“手段”としての戦争を選んだことへの悔恨に苛まれていたことである。しかし、東條はそのことを最後まで理解することはできなかった。そこに日本の悲劇があった。
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