メモに表れた“東條の浅薄な天皇観” 「東條英機メモ」が語る「昭和天皇」戦争責任の存否(保阪正康)

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「メモ」に表れた浅薄な天皇観

 官邸で密かに泣き、開戦前日には不安を紛らわせるために部下に強がってみせる(※前回参照)。こうした一連の行為には、怯えながら不安と戦っている小心な姿が垣間見える。いずれにせよ、「天皇のご意向を尊重する」と公言していた東條は、天皇の真の気持ちをもっとも理解しない指導者だったことが「湯沢メモ」で裏づけられたわけである。

 ところで先の東條が“ほろ酔い状態”であったことについて、少し補足しておこう。

 昭和初年代のことだが、陸軍次官の名で省内の幹部に「夜に天皇に上奏に赴く時は酒を飲んで赤い顔で御前に出るのはやめよう」との通達が出された。幹部たちは夕食の折に晩酌するのを常としていたのである。それで赤い顔をして上奏に行くのだが、「それはやめよう」というお達しであった。そこには、まだ20代の昭和天皇を軽んじる幹部たちの感情もあった。

 ただ東條はこのようなタイプと一線を引いていた。そのために天皇の信頼を得たともいえる。もっとも、いくら高揚しているとはいえ、開戦前日にほろ酔い状態では、他の軍事指導者と同様であるが。

 さらに「湯沢メモ」を原文に沿って見ていくと、東條が伝える「天皇の決意」はいくつかの独断の上に成り立っていることに気づく。

〈天皇はひとたび決心するとなんらの動揺がない〉

〈明日の真珠湾攻撃を報告しても平生と変わりなく落ちつかれている〉

 といったことが強調されている。しかし、天皇が不動の決意を持ったごときの見方は、東條の勝手な思い込みである。

 天皇はなぜ戦争に反対したのか。前述(※前回参照)したように“目的”のための“手段”として戦争を選択すれば、国体護持が困難になることを知っていたのである。

 20世紀が始まった時、ヨーロッパで君主制でなかった国はスイスとフランスだけであった。それが第1次世界大戦が終わった後、君主制は次々に崩壊していった。天皇にとって、それは大きな教訓となった。天皇はひとまず東條ら軍事指導者の言を受けて“手段”としての戦争に踏み切ったが、その不安を東條は全く理解していなかった。それは明治期の山縣有朋や伊藤博文らの明治天皇に接する態度とはあまりに異なっていた。

 3人(※陸軍からの赤松貞雄、海軍の鹿岡円平(かのおかえんぺい)、内務省の広幡真光)の「秘書官メモ」によると、東條は時に天皇に会った後、官邸に戻ってきて「今日はお上に叱られてしまった」と子供のように舌を出したり、「我々は人格だが、お上は神格である」といったりしている。その天皇観は、しょせん陸軍の一兵士レベルにすぎなかった。「湯沢メモ」には、そうした東條の浅薄な天皇観も表れている。

 新聞の見出しにあった、

〈東条の胸中 生々しく〉

 との表現は、その単純さを捉えてと考えれば、なるほどと納得できる。

「湯沢メモ」は、東條が部下に「明日、軍事行動に踏み切るよ」と伝えた私的な会話である。公的記録ではないし、夕食後の酒を飲んでの雑談といったところではないかと、私には思える。

 東條は極めて実直であるのだが、戦時下ではことあるごとに天皇の威を借り、自らの存在を大きく見せるのに熱心だった。「湯沢メモ」はその証拠として、今、私たちの前に現れたというべきであろう。

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