読売新聞が報じた“昭和史スクープ”は歴史的発見か 「東條英機メモ」が語る「昭和天皇」戦争責任の存否(保阪正康)
小心官僚の“独裁者”東條
では、改めて今回の「湯沢メモ」の文書を基にして、開戦日前後の東條の心理を浮き彫りにしてみたい。当時の最高指導者の考え方が確認できるはずだ。
今回の文書とは別に、この時期の東條の動きを追いかけると、彼のある資質、心情傾向が窺える。
遡ること2カ月、東條は近衛文麿内閣の下で戦争による現状打開を訴えていた。近衛との開戦か否かの最終局面での折衝は、きわめて象徴的だった。外交交渉で解決したいと説く近衛に、東條は「人間一度は清水の舞台から飛び降りることも必要だ」「(外交交渉に期待をかけるのは)これは性格のちがいですなあ」といった発言で圧力をかけ続けた。結局、近衛は辞任する。昭和16年10月16日である。そして次の首相に、木戸幸一内大臣は東條を推すことになる。
なぜ主戦派の東條を、という声は当時もあり、今も不思議がられている。木戸に対して、昭和天皇が「虎穴に入らずんば虎子を得ずだね」といったのは、まさに歴史的な意味を持つ。つまり主戦派の東條により、軍内の強硬派をなだめようとしたわけである。それに東條は誰よりも強く昭和天皇へ畏敬の念を持っていた。
東條はそれまでの主戦論を一変して外交交渉に力点を置く方向へ向くが、しかし現実にはその路線は否定され、開戦へと進んでいく。むろん、ここにいたるまでには様々な動きがあった。東條は首相就任当初、確かに天皇の意思を尊重するかに見えたが、近衛内閣時代の自らの影に怯える形で戦争へと向かっていった。
すでに開戦と決まった後の東條は、小心な軍官僚の姿を露呈する。開戦2日前の12月6日深夜には首相官邸で号泣している。そのことを証言した勝子夫人は、
「隣室のタク(夫のこと)の部屋から泣き声が聞こえるのでふすまを少し開けて覗くと、タクは皇居の方に向かって正座して泣いていました」
と話していた。この涙をどのように解釈するか。私は、戦争を選択したくない昭和天皇の意思を踏みにじる結果になったことに対して、申し訳なさを感じての涙であろうと推測する。
東條は天皇や木戸の期待、あるいはその要求に応えられなかったのだから、本来なら辞任するのが筋であろう。しかし彼は全く逆の考えを持った。
それは「天皇は私を信頼している。それに応えるには戦争に勝つことのみだ。私にはその責任がある。その私に抗するのは、天皇に異を唱えることだ」との“独裁者”の心理であった。
東條のこの心理は、軍人にあるまじき錯誤だった。錯誤に至るまでの経緯は、東條の3人の秘書官(陸軍からの赤松貞雄、海軍の鹿岡円平(かのおかえんぺい)、内務省の広幡真光)によって書かれた「秘書官メモ」に詳しい。
当初はお気持ちを察するのに苦慮していた東條が、いつしか、天皇が“手段”として戦争を選択することへの不安と困惑に全く気づかなくなってしまっていた。
今回の「湯沢メモ」は、東條のその錯誤を明確に証明した文書の一つであろう。
(下)へつづく
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