「天皇崇拝」教育強制でもパラオ人が日本統治を懐かしむ理由

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同化政策も反発を買わなかった

 パラオの人たちがなぜ今でも親日なのか。その理由は、「『大日本帝国時代は本当にいい時代だった』 パラオの人はなぜ今も親日なのか」など、これまで2回にわたってみてきたが、大日本帝国時代の統治方法がすべて正しかったわけではない。現代の目で見れば、かなり問題があったとも言えるのはたしかだ。

 たとえば日本はミクロネシアを統治するようになると、現地の子どもたちのために学校を作り、移住してきた日本人と平等な教育の機会を与えた。ここまでは何の問題もない。

 しかも教育の第一の目的は「現地住民の幸福、健康、および衛生の増進」。善政と言っても過言ではない。

 しかし、日本人と教育内容が同じだったことは、やはり現代ならば批判の対象となるだろう。算術や理科などはいいとして、国語(日本語)や天皇を神とする教育は、同化政策そのものだからだ。

 もっとも、当の島民たちは当時も、そして今もそれを責めるどころか懐かしく振り返っている。これがあまり見られない現象だ。

 なぜ彼らはそれもまた良い思い出としているのか。

 その時代を知る人たちの証言を多数収録した『日本を愛した植民地 南洋パラオの真実』(荒井利子・著)から、地元の古老たちの生の声をピックアップしてみよう(以下、引用はすべて同書より)。

 取材時87歳のヤップ人、ガロンさんはこう語る。

「朝礼では、日本に向かってお辞儀しました。カレンダーには紀元節、天長節、お正月とかちゃんと書いてあった。その日が来ると、日本の日の丸の旗を揚げて式をしました。それが終わると、パン2個ずつ子どもたちに配って村に帰した。紅白の丸い小さなパンだった。日本人と同じように扱ってくれていた」

 島はその後戦争に巻き込まれて大変な目にも遭うのだが、ガロンさんにとって日本統治時代は楽しかった思い出だ。戦後、たくさんいる日本人の友達を訪ねて日本に遊びに行ったほどである。

「運動会とか遠足とか楽しかった。学校に行っている頃は楽しかった。ここから学校まで1里半くらいあります。子どもの足で2時間。授業時間は8時からだから朝6時前にうちを出ました。

 3年生の時に、学校の近くの日本人の家庭に手伝いに入って、下宿しました。飯炊きとか掃除とかした。大工さんの家でした。一緒に暮らした。学校が終わるまでそこで暮らしました」

 前述の通り、学校では天皇崇拝を徹底して教えていた。日本人とパラオ人のハーフの男性、タナカさんは、こう振り返る。

「天皇は生きた神様だ。そういう教えがありました。だから毎朝学校に集まって、宮城に向かって下の方向いて頭を下げて、『天皇陛下バンザイ』『私たちは天皇陛下の赤子であります。私は立派な日本人になります』って言っていました。

 時が来たら日本人になると思っていた。あのまま太平洋戦争がなければ自分は日本人になると思っていました」

「嬉しくて胸がいっぱい」

 こうした教育が反発を買わず、今も良い思い出として語られるのは、基本的に島民を差別しないようにし、さらに雇用を生むような政策をとっていたからだろう。

 優秀な島民は日本に留学もさせたし、「練習生」という制度もあった。これは放課後、日本人の家庭で家事手伝いをしながら、日本語と家事を学習するという制度だ。「体のいい小間使いではないか」と思うかもしれないが、これも当時者の受け止め方は異なる。

「政府の仕事をしている人とか、学校の先生とか、沖縄のビジネスマンの大きな家があって、そこに練習生として、家に行って給仕のような仕事をしました。庭を掃いたり、家の掃除をしたり。家の中の仕事はほとんど女の子でした。男の子は庭とか店の手伝いが多かった。

 そこで日本語をどんどん覚えさせて、日本人の生活の仕方も教えた。日本人の奥さんたちも、自分の子どもと同じように扱った。練習生は待遇がとってもいい。お菓子とお金もらった。1カ月に1円50銭もらって、そのうち1円は郵便局で貯金通帳つくってもらい、先生が毎月積立ててくれた。残りの50銭はうちへ持って帰った。5年終わって卒業する時まとめて貯金通帳をもらった。当時50銭あればシャツ買って、お菓子買って、いろんな物が買えました。卒業した人はお金があった。だから日本時代は良かったってなるわけです」

 天皇崇拝だけをクローズアップすれば違和感があるかもしれないが、そもそもこの地域はそれ以前もスペインやドイツが支配しており、彼らは彼らで信じる「神」を島民に広めていた。しかも逆らう島民は徹底的に弾圧していた。

 それと比べれば、日本の統治は穏やかなものだった。多くの島民が当時の日本人が自分たちをフェアに扱ったこと、そして教育を施し、豊かさをもたらしたことに今でも感謝の言葉を述べている。だからこそ、「占領者」であるはずの日本人とパラオ人とは戦後も交流を続けられたのだろう。

 日本人の官僚の家に練習生として通っていた女性、ルルさんはこんなエピソードを語っている。

「学生で練習生として通っていましたけど、卒業してからも2年ばかりずーっと勤めていました。奥さんは体が弱くて、家事に手が回らないから、私に卒業してからも来てほしいって。いい人でした。息子が2人いました」

 戦後、アメリカが統治するようになってから、パラオにその息子たちがやってきたことがあった。奥さんは、自分はパラオに来るだけの体力がないからと、ルルさんの住所と名前を息子たちに渡して、訪ねるように言ったのだという。

「私の働いていた新聞社に訪ねてきてくれました。その頃、私は結婚していました。

 その子どもたちに、私の家族、主人や子どもたちもみんな会わせました。嬉しかったー。嬉しくて胸がいっぱいでした。そのくらい人間関係が良かったんです」

 そう語った彼女は、荒井さんの前でしばらく泣いていたという。

 植民地化や同化政策は現代の目で見れば褒められたものではないのだろう。しかし、だからといって、現代の目で善悪は単純に裁けるものではない。

デイリー新潮編集部

2018年8月29日掲載

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