「親なき子」を作り出す生命科学でいいか 山折哲雄氏の解説
生命科学のこれからが見通せない。それはときに、たしかに明るい顔をみせてきた。けれども不妊治療などの現場では、難しい選択を迫るばかりか、判断に迷う領域を広げてもきた。とりわけ「親」と「子」のあいだに横たわる闇の部分を増大させてきた。体外受精や代理母による出産などはその最たるものではないだろうか。医療技術の進化により、患者の選択肢がどんどん増えていって、ついに親子の関係を法的に制御することができなくなる状況に追いこまれているありさまである。
過日、世界で初の体外受精児として生まれた英国のルイーズ・ブラウンさん(40)が来日、その元気な姿が大きく報じられた。その後結婚し、子どもが2人、自然妊娠で生まれ立派に育っていることが写真入りで紹介された。
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当時これは「試験管ベビー誕生」として世界中に衝撃を与えたが、以来40年、全世界で700万人以上、日本でも累進50万人近くの子どもが体外受精で生まれているという。その結果、結婚や離婚の多様化にともなって、遺伝子診断による血縁の有無や男女関係、親子関係の実相を調べることがおこなわれるようになった。それがまた芸能界などでは好個のスキャンダル事件として騒動の種をふりまいてきた。
ところがこの間、これらの体外受精をはじめとする生命科学の技術的進化とはうらはらに、その技術の操作によって生まれた「子」の運命とその将来について論議を深めることにはいっこうに手がつけられていない。医療技術と「親」の都合ばかりが優先され、「子」の利害を考える方面はいつもあと廻しにされてきたのだ。精子と卵子をさまざまな技術を用いて操作的に結びつけ、これまた複雑な形で着床と出産につなげて、「子孫」をのこし、血縁をつくりだそうとする。われわれの社会では昔なら「生みの親より育ての親」ということがいわれてきたが、その言葉も今やまさに風前の灯、というありさまである。
ところで、さきの英国のルイーズ・ブラウンさんであるが、彼女が世界初の「試験管ベビー」として誕生したのが1978年だった。その18年後の1996年になってこんどはクローン羊ドリーが造られた。そしてよく知られているように、あまり時をおかずにiPS細胞の作製(2006年)によって、クローン(複製)人間を技術的につくることが可能になった。
“生みの親より育ての親”
世紀をまたいで生命科学がめざましく進化したわけであるが、そのさなか英国の日系作家カズオ・イシグロ氏による『わたしを離さないで』(早川書房、06年)が発表された。売り上げをのばしてみるみる世界的なベストセラーになり、わが国でもTBS系でドラマ化され、大きな話題を呼んだ。
作者のカズオ・イシグロは1954年長崎生まれ。5歳のとき家族とともに渡英し、長じて作家となり数々の賞をさらって英国屈指の小説家になった。
作品の舞台は、まさに1990年代末の英国。96年にクローン羊ドリーが誕生した話を先に出したが、イシグロのこの小説も羊→牛→人へとクローン技術が応用されていく時代を視野に入れていたことは言うまでもない。日本でも98年にはすでにクローン牛が造られていたのである。そのことをイシグロは知っていたであろう。
田園の一角に特殊な目的のもとに運営されているヘールシャムという教育施設がある。10代前半の生徒たちが学んでいるが、一見どこにでもあるような愛と友情をめぐる楽園物語が坦々と繰り広げられていく。ただ、生徒たちは、臓器の提供者としてこの世に送り出されたという運命を背負わされている。そして、彼らの日常の面倒を見る介護人がつけられる。この介護人たちも同じ運命の下に生きている。
小説は、介護人キャシー(女)の語りで進行していくが、その恋人がトミー(男)、ライバルがルース(女)で、2人は提供者の役割を与えられている。複雑な葛藤を抱えこむ三角関係が、陰影に富む落ち着いた筆致で描かれていく。
そんな状況のなかで学園の先生(保護官兼教師)がこんなことをいう。「あなた方の人生はもう決まっています。将来は決定済みですから、無益な空想にはふけらないで。みっともない人生にしないために自分が何者であるか知っておいてください」。提供者も介護人も、すでに子どもを産めないからだにされている。だから施設内ではフリー・セックス。それが愛を確かめ友情を深めていくための唯一の回路であるかのように……。
ここで、突然、「親」探しの場面がでてくる。自分たちは普通の人間から複製された存在であるから、当然、複製元つまり「親」がいて、それぞれの人生を生きているはずだ。その親は同世代か。年長か年下か。最高の能力をもつ人間か、それとも精神異常者か。――議論がはてしなくつづく。
そしてその「親」探しの企ては、結局失敗する。一人がいう、――親なんて、わたしたちをこの世に産み出すための技術的な要件の一つ。そんなことには無関係に、わたしたちは自分の人生を精一杯生きればよい……。
そんな「親」探しの迷走のなかで、彼らのあいだから「輪廻転生」の話が出てくる。一対一の親子の関係が特定されない以上、最後に行きつくのが輪廻し転生する魂(遺伝子)の物語、ということかもしれない。
かと思うと、語り手のキャシーがつぶやく。――学園を出て、すべての浮世の制約を離れたとき、まったく無の状態で人生を考えることができるかもしれない。そのときばかりは、もはや夢想を語る生徒は一人もいなくなるだろう、と。輪廻転生か無か、という問いをわずかにちらつかせながら、この小説はしずかに終章にむかっていく。
読み終って、脳裡にのこったこんな言葉が忘れられない。登場人物の一人にいわせているのであるが、「外の世界にはわれわれの複製元、つまり親がいて、それぞれの人生を生きている。とすれば、その親と出会う可能性(ポシブル)」がある、と。
可能性としての親!
われわれはいつのまにか、何とも遠い、はるかな世界にまできてしまっているのかもしれない。さきにもいったが、われわれの社会はかつて、「生みの親より育ての親」という言葉を大切にしてきたが、それは育ての親の「可能性」に希望も期待もかけようという時代だったのではないか。しかし、これもすでにどこか遠くの国の夢物語になっているのかもしれない。
可能性としての「親」は、おそらく無としての「親」の別名であり、すでにわれわれは「親なき子」の時代に入りはじめているのであろう。
カズオ・イシグロ氏がこの小説を発表してから10年ほど経って、ノーベル文学賞を授与されたことが何となく偶然ではないように私は思っているのであるが、それはそれとして、今やこの世は「家なき子」から「親なき子」の世界へと移行しつつあるのだろう。(以上、「新潮45」2018年9月号より転載)