元最高幹部が明かす 「高倉健」と「山口組」の知られざる交流
生涯の恩義
いまでは往時を知る関係者もほぼ全員が鬼籍に入(い)ったなか、2人の邂逅を知る貴重な証言者が実在する。ほかでもない、田岡氏の愛娘である田岡由伎(ゆき)氏である。
「父が健さんと知り合ったのは、ひばりさんと仲のよかった江利チエミさんを通じてだったと思います。後から聞いた話ですが、チエミさんとつきあいだした頃の健さんはまだヒット作に恵まれず、鳴かず飛ばずの時期でした」
高倉の所属する東映の岡田茂(京都撮影所所長、のち東映会長)と田岡氏はひばりの映画出演を通じて肝胆相照らす仲だった。
由伎氏が続ける。
「チエミさんに恋人の健さんを紹介された父は“大部屋にいたら一生、大部屋だ。スター、主役にしたらなあかん”と思ったのでしょう。岡田さんに声をかけ、高倉さんの売り出しに一役買い、それが出世作となる『日本侠客伝』(64年)製作へとつながったと聞いています」
もとより東映本社の社史には記載のない秘話である。
由伎氏の証言はさらに続く。
「それがきっかけで、健さんは父としょっちゅう会うようになったそうです。極道の着物の着方、ドスの持ち方から、日常の所作まで、父から実地で学ぼうと。健さんが(田岡邸のある)神戸にいらっしゃることも多かったし、父もたまに東映(京都撮影所)に行っていました。父が65年に入院したときも、健さんはよく病室に見舞いに訪ねてこられました」
とすれば、任侠映画の立役者・高倉健の生みの親の一人が田岡氏だったことになる。筋目を重んじる高倉がそのことを生涯の恩義と感じたとしても不思議はない。田岡氏の半生をモデルにした実録任侠映画「山口組三代目」が73年、高倉主演で製作され、空前の大ヒットを記録するが、撮影に臨んでの意気込みを、高倉ははしなくもこう明かしていた。
「作品の人物にホレこむという映画は、ひさしぶりですから」
田岡氏への「離婚報告」
前出の神戸芸能社関係者が明かす。
「山口組本部からも遠くない神戸の湊川神社で、健さんと(後の田岡夫人役の)松尾嘉代が若き日に将来を誓い合う重要なシーンの撮影に臨んだときのことです。健さんは撮影が終わるとその足で本家の田岡三代目を訪ね、付き人も遠ざけ親分の部屋で2人きりで、30分ほどでしたが、お互いをねぎらいあったんです」
役者として、あるいはひとりの男としての転機に、高倉は田岡三代目との面会を求めていたフシがある。
由伎氏も頷いて言う。
「チエミさんと離婚したとき、健さんはいきなりいらっしゃって、玄関の前に立って敷居をまたごうとしないんです。父が玄関まで迎えて、“どうした、あがれ”って言っても、“いや、あの、今日はこの敷居が高いです”と。事情を聞くと“(チエミと)離婚することになりました。すみません”と、最後まで軒先から上がらず帰ってしまった」
常人からは窺い知れぬ絆で結ばれた“師弟関係”は、田岡三代目が没した後も、変わることがなかったようだ。
「81年に田岡さんが他界したとき、盛大に営まれた葬儀に健さんの姿はなかったんですが、その数日後、“高倉です”と電話が入った。近くの公衆電話からでした。単身、本家の門をくぐった健さんは持参した線香を手に田岡三代目の仏壇に向き合い、位牌に焼香したんです。その後も、命日に健さんから欠かさず線香が届きました」(田岡家関係者)
由伎氏と高倉の交友もまた、高倉の死の直前まで続いた。
「(健さんとは)よく会う時期と手紙のやりとりだけのときも。その手紙に、『自分にとって役者とはなんだろうと悩んで、壁にぶつかっています。でも(田岡)親分から教えてもらった、人とは何か、男とは……、ということを考えていけば、ふと同じところにたどり着くんじゃないか……』と、そんなふうに書いてあるんです」(由伎氏)
そして、彼女は昭和映画史の秘められた内幕についての証言をこう締めくくった。
「健さんは後年、私に“極道の世界をまったく知らない頃に、全部親分に教えてもらった”と言いましたが、玄関で敷居をまたがなかった態度も含めて、(住む世界は違っても)健さんは父から、人として男としての生き方、矜持を学んだのではないかと思うんです」
虎は死して皮を留め、人は死して名を残す。
不世出の任侠映画スター高倉健は、裏社会のドンとして君臨した田岡氏が精魂を込めた形見、だったのかもしれない。
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