参拝後は遊廓で“精進落とし”!?――そこに込められた深い意味

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「精進落としですので、どうぞあがっていってください」「精進落としに一杯飲んでいこう」などと使われる“精進落とし”。元来、四十九日の忌明(いみあ)けに、肉類を使わない精進料理から通常の食事に戻すことを指すのだが、現在はこのように、通夜や葬儀の後に、喪主や遺族が参列者をもてなす宴席をいうことが多くなった。

 ところが、この“精進落とし”、まったく別の意味もあるらしい。

 かつて神社や寺に参詣をすませた男たちが、その足で門前の色街に立ち寄って、歓楽に耽ることを“精進落とし”と称したというのである。

 全国の遊廓跡を訪ね歩き、いまもわずかながら残る現役営業中の“元妓楼旅館”を紹介する本、『遊廓に泊まる』を上梓したカメラマン、関根虎洸さんが語る。

「こうした“精進落とし”の風習は、古くは伊勢神宮の古市遊廓や金刀比羅宮の琴平遊廓にも見られるように、じつは日本の伝統的な“娯楽”だったんです」

 伊勢神宮の外宮と内宮をむすぶ参宮街道には、かつて古市遊廓という華やかな歓楽街があった。江戸後期には70軒の妓楼が建ちならび、1千人を超える遊女を抱え、栄華を極めたという。

 伊勢神宮といえば、江戸時代に「おかげ参り」と呼ばれるお伊勢参りブームが沸き起こったことは、よく知られている。ちなみに、最盛期の天保元年(1830年)には、年間500万もの人が全国から伊勢へと押し寄せた。当時、街道の交通網が発達したとはいえ、伊勢までの旅は江戸から徒歩で片道15日ほど、大坂からは5日はかかった。庶民にとっては、一生に一度の長旅だったはずだ。

「男たちは、その道行を苦行にたとえて、参拝を済ませて俗社会に戻ることを、都合よく“精進落とし”と呼んだのでしょうね。ただ、ひとつ面白いのは、女性側も、参拝を済ませていない男性はお断りしたらしいです。これは本当に『精進落し』なのだ、という大義をつくっていたのだと思います」

 明治になって古市を迂回する道路が整備され、栄華を極めた遊廓は衰退していった。その後、戦災によって建物もほとんど失った。そして昭和33年の売春防止法施行によって「遊廓」は完全に消えたわけである。しかし、往時の華やかなりし遊廓の残照を伝えてくれる元妓楼旅館が、いまも1軒だけ奇跡的に残っている。

 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも登場する「麻吉旅館」だ。

 築200年を超える、丘陵地の斜面を利用した「懸崖造(けんがいづく)り」とよばれる木造5階建ての建物は、見るだけでも価値がある。

「ただ1軒、戦災を逃れて、古市遊廓の江戸情緒をいまに残す貴重な建物です。しかもいま、現役の旅館として営業されていて、誰でも普通に泊まれます」

 最上階の大広間「聚遠楼(じゅえんろう)」で繰り広げられた遊女らの踊りは壮観だったろう。窓から丘陵の裾野を見下ろしながら、参詣帰りの旅人たちは、存分に羽を伸ばしたはずだ。現在、「精進落とし」は不可能だが、一夜を過ごして、風情だけでも味わってみてはいかがだろう。

「ところが、じつは、『精進落とし』がいまなおひっそりと続いているところがあるんですよ」

 関根さんがショッキングな話をもちだした。

 それは、古くから「聖天さん」と親しまれてきた生駒山宝山寺の参道に残るという。昭和40年代には、色街・生駒新地に生きる女の哀歌「女町エレジー」も、堂々と歌われていた。

「最盛期だった昭和30年前後の賑わいはすっかり消え失せてはいますが、細々とながら、いまも『精進落とし』はあります」

『遊廓に泊まる』にも書かれているとおり、全国に唯一、ここだけに存在する、そうである。

デイリー新潮編集部

2018年8月20日掲載

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