麻生大臣の「石破口撃」はフェイクかファクトか 石破茂氏の派閥に関する考え

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田中派から移籍

 ここで徹底的に選挙の戦い方を学んだ石破氏だが、出馬にあたっては渡辺派に移籍している。というと、寝返ったようだがそうではない。これは田中角栄氏の勧めがあったからだ。

「(1984年の)選挙に出馬する前に、私は田中派を離れることになったのです。きっかけは、前年に鳥取全県区でトップ当選した議員が急逝したことでした。その後継として出馬してはどうか、という話が持ち上がったのです。

 亡くなられた議員は渡辺派(温知会・その前身は中曽根派)所属であること、そしてこの選挙区にはすでに別の田中派の議員もいらっしゃることから、田中先生が、お前にその気があるのなら口をきいてやろう、と勧めてくださいました。

 渡辺派の掲げる政策が、当時の私にとっては抵抗なく受け入れられるものだったこともあり、私は渡辺派に円満移籍したうえで出馬することになったのです」

 他派閥であっても、党全体を考えて人材を放出するあたりはさすが田中角栄氏ならではの器の大きさを示すエピソードでもある。さて、その渡辺派で石破氏は田中派の選挙の戦い方が独特のものだったことを知る。

「渡辺派の選挙への向き合い方は、田中派ほどシステマチックなものではありませんでした。田中派の選挙戦は『総合病院』のようだと喩えられるほど、メンバーに対して行き届いたものでしたが、『地鶏集団』渡辺派のそれはまったく異なるものでした。

 派閥の重鎮である江藤隆美先生が、『石破君、田中派と違って、わしらはみんな地鶏じゃけえ。エサは自分で探して歩かなければいかんのじゃ』と仰っていたことがあります。つまり派閥の力に頼るのではなく、各議員が自力で戦う文化だったのです」

選挙に強い体制を

 こうした経験から、2012年、安倍総裁の下で幹事長をつとめることになった石破氏は、自民党全体を「あのころの田中派」のようにしたいと考えた。

「より正確に言えば、選挙に強い田中派の文化を自民党の文化として浸透、定着させたいと考えたのです。

 すでに小選挙区制度となって久しく、自民党議員同士が戦うことはもはや無くなっていました。中選挙区時代は同じ選挙区の中でも派閥同士で議席を争い、それぞれが総裁候補を立てて争っていました。その派閥の色もあり、右寄り、中道、左寄りの派閥が党内にあった。この構図から、かつては自民党内で疑似政権交代が行なわれていたとも言われます。

 しかし選挙制度改革等により、派閥の力は低下していきました。もちろん、すでに田中派の文化もほとんど廃れていました。

 それだけに党全体で、選挙に常に備え、勝つためのノウハウを共有する体制を作りたい、と私は考えました。もちろん派閥ごとに政策を研究し、議論をするのはいいことです。そこにはそれぞれのやり方、文化があってしかるべきです。

 しかし、選挙戦においては田中派のアプローチが有効だというのが私の考え方でした」

 この考えのもと、石破氏は党改革に乗り出す。選挙のノウハウを党全体で共有する体制を作ろうとしたのだ。また、地方組織との連携も深めるためにさまざまなアイディアも打ち出した。当時のことをこう振り返る。

「派閥同士の連携と、地方と中央の連携を進めることで、より選挙に強い自民党をつくれるだろうと思いました。しかし、こうしたアイディアは結局、実現に至りませんでした。特に派閥の連携については、『石破は派閥を否定している』と受け止められてしまったようでした。真意が必ずしもストレートには伝わらなかったのは残念です」

 実のところ、石破氏がいつどこで「派閥をやめよう」と言ったのかは定かではない。麻生大臣の「口撃」は、氏の持ち味の一つでもある「カン違い」「誤解」「舌が滑った」の類なのか、それとも選挙につきもののネガティブキャンペーンなのか。

デイリー新潮編集部

2018年8月20日掲載

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