「絶対に罪を着せなければならなかった」――中国からも冤罪証言 毛沢東暗殺謀議で処刑された「日本人スパイ」娘の告白

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「毛沢東暗殺謀議」で処刑された「日本人スパイ」娘の告白――相馬勝(3/3)

“天安門楼上にいる毛沢東らを迫撃砲で暗殺しようとした”なる謀議で、山口隆一氏が彼の地で処刑されたことを知る人は少ない。1951(昭和26)年に下されたその処刑について、中国側は「中国の歴史で外国人が処刑された初めての例」と明かすが、その罪は「冤罪」であった疑いがある。米英ソなど各国のスパイによる情報戦の中心だったことから、スパイたちへの“見せしめ”狙いだった可能性もあるのだ。ジャーナリストの相馬勝氏が、山口氏の実娘・撫子さんの証言を元に日中の歴史の暗部に迫った。

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 改めて撫子さんが言う。

「父は、東京の弟に宛てた手紙には『シナは偉大な国だ』とか、人民解放軍についても『どんな人たちが来るか楽しみだ』などと書いていたくらいで、反共主義者ではありません。

 甥の将来を心配して、『日本の学校に向かなかったら、私のところでシナの学校に入ることも一つの方法であります』と勧めていることからも分かります。また、『小生の友人の蒙古の王様に頼んで、王様の家来にしてもらい、羊や馬の番人にしてモウコ人娘のヨメさんでももらわせます』とユーモアたっぷりに書いているくらいで、本当に中国が好きな人でした」

――歳月の流れと共に、人々の記憶から事件は忘れられていった。最期まで冤罪を信じた妻も、昭和の終わった年に亡くなった。

 ところが――。

 その後、20年以上もの時を経て、中国側からも「冤罪」を示唆する声が出始めてきたのだ。

 例えば、香港の文化芸術出版社の『刺毛陰謀――建国以来最重大国際間諜行刺案内幕全解密』(2011年6月刊)の中で、趙明・元中国公安部副部長はこう述べている。

「半世紀前、当時は外国人だろうと中国人だろうと、事実としての真相をはっきりと言い切ることは誰もできない状況だった。――当時の北京では、謀略事件を捏造するのは簡単だった。もし当時、リヴァ(山口家の隣人のイタリア人男性、アントニオ・リヴァ氏)や山口がいなくても、われわれは同じような人間を必ず探すことはできた。われわれは絶対に米国人に罪を着せなければならなかったのだ。これは当時、必要なことだった。なぜならば、1950年7月、北京で第1次全国反間諜会議が開かれたからだ」

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