意外なアノ人もその“犯人”? 不幸な過去を繰り返さないために〈誰が「国宝」を流出させたか〉
誰が「国宝」を流出させたか――中野明(3/3)
『流出した日本美術の至宝』(筑摩選書)の著書が解き明かす、海外に流出した日本美術の名品と、その経緯である。ここまで見てきたその“犯人”には、例えばボストン美術館に《平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)》をもたらしたお雇い外国人のアーネスト・フェノロサ、琳派の名品を多数蒐集し自らの名を冠した美術館をオープンさせたチャールズ・ラング・フリーアがいる。そして最終回となる本稿では、有名なあの人物の名もそこに加わる。
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意外な人物が日本美術に惚れ込んで、多くの作品を海外に持ち出した事例もある。イタリア出身のお雇い外国人エドアルド・キヨッソーネ(1833〜98)のケースもその一つだろう。印刷技術指導のために招聘されたキヨッソーネが、日本の紙幣製造に深く携わったことはつとに知られている。しかし、膨大な量の日本美術を蒐集し、自身の名を冠する美術館を築いたことは、あまり知られていないのではないか。
日本の紙幣を飾る肖像や図案の考案には、日本古来の伝統を学ぶ必要がある。業務上の必要からキヨッソーネは日本の古美術品に接したが、次第にのめり込み、やがて稀代の日本美術蒐集家に変身した。
キヨッソーネが蒐集した作品は極めて広範囲で、銅器から版画、絵画、漆器、織物、彫金、本、武器、武具、陶磁器、七宝焼、能面、貨幣、さらには考古学上の出土品にまで及ぶ。また、体系的に蒐集している点も大きな特徴で、そのため博物学的な価値も高い。
来日して23年後の明治31年(1898)、キヨッソーネは東京・平河町の自宅で息を引き取った。遺言により、総点数1万5千点以上にも及ぶコレクションは、故郷ジェノヴァの母校に寄贈された。これが現在のキヨッソーネ東洋美術館のルーツになっている。
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