見せしめ逮捕、“シーソーの拷問”で自供強要… 毛沢東暗殺謀議で処刑された「日本人スパイ」娘の告白
周恩来への手紙
――当時、敗戦国・日本と戦勝国・中国との力の優劣は明らか。大陸の地で同胞がいかに“無罪”を主張しようとも、当時の日本政府は何も手助けは出来なかった。
山口氏が獄中で激しい拷問を受けている間、残された妻や撫子さんら子どもたちにも官憲の手は迫っていた。
「父との面会は許可されませんでした。母と一緒に冬用の下着を持っていったり、洗濯する着物を返してもらったりはしていました。母が下着の片隅に、小さな字で『元気ですか』と書いておくと、返ってきた洗濯物に小さい紙で『心配しなくても良いよ』などと返事が書かれていたといいます。そんな短いやり取りだけで精一杯だったようです。
父の逮捕から2カ月間、警官が入れ代わり立ち代わりやってきて、家宅捜索を行い、父が残した書類などを調べていた。母にも手伝うことを強要していました。毎日24時間の監視状態のなか、弟や妹は何をされるか分からないとの恐怖で情緒不安定になり、時々意味もなく泣き叫んでいました。
母も官憲に責められて、『山口はアメリカのスパイだったのだろう』と四六時中質問されたが、母は言質(げんち)をとられまいと『いいえ、そんなことはありません』と否定するだけでした。母が非協力的だったためか、ある日、『次に来るときは、お前を逮捕する』と言われたそうです。母は本当に逮捕されるかもしれないと思ったようで、その日の夜、荷造りをしておいて、周囲に『私が逮捕されたら、荷物をまとめてありますから、子どもたちをお願いします』と頼んでいたということでした。
さらに、母は私たちの身を案じて、周恩来総理に手紙を書いて、父が逮捕されたこと、幼い子どもが4人もいること、母が逮捕されれば、子どもたちが路頭に迷うことなど縷々(るる)書いて、『どうか、助けてください』などと訴えたといいます。その後、警官が来て『もうお前を逮捕することは止めた。ちょっと都合が悪い』と言ったそうです』
――ついに獄中の山口氏とは会えぬまま、妻や撫子さんらは翌年5月、日本への帰国の途に就いた。そして8月、冒頭のように(※前回参照)、山口氏は処刑された。
〈毛主席暗殺事件の真相〉(51年8月25日付朝日新聞)
〈毛沢東暗殺事件に抗議する〉(53年1月11日号「サンデー毎日」)
納得できない妻は、実名で新聞や雑誌に夫の無実を訴えた。先の長谷川氏の記事のように、それを裏付ける証言も出てきた。しかし、失われた命が戻るわけもない。
(3)へつづく
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