美を見る目が甘かった…フリーア美術館が持つ“琳派の名品”〈誰が「国宝」を流出させたか〉
カネにモノを言わせて…
そして、もう1点、《宝楼閣曼荼羅図》(作者不明)である。仏教には諸尊が住む楼閣を讃えて大衆の滅罪や息災を祈る宝楼閣法がある。その本尊として用いたのがこの仏画だった。美術館がこの画を購入したのは昭和4年(1929)で、フリーアの没後のことである。彼は作品の寄贈のみならず、美術館の建設費と将来にわたってコレクションを充実させるための基金も残した。《宝楼閣曼荼羅図》の購入もその基金によるものだと考えられる。
この画の元所有者は、川崎造船所(現・川崎重工業)を一代で築いた川崎正蔵(しょうぞう)(1837〜1912)だった。薩摩出身の正蔵は、やがて首相を2度務める同郷の松方正義(1835〜1924)との関係を深め、兵庫造船所の払い下げを受けると、造船事業で莫大な富を築く。その富で日本美術の名品を蒐集し、明治23年(1890)には神戸・布引に川崎美術館を開館している。この施設は、本邦における私設美術館の嚆矢と考えてよい。
そもそも川崎正蔵が日本美術の蒐集を始めたのは、日本の優品が海外に流出するのを憂えてのことだった。彼はこう言ったという。
〈予が美術品を蒐集するは、一に是等の気品優秀なるものが、外人の阿堵物(あとぶつ)の為めに海外に濫出するの虞(おそれ)あるを以て、之れを防止せんが為め也〉(山本実彦『川崎正蔵』1918年、吉松定志)
阿堵物とはマネーのことにほかならない。正蔵は、金にものを言わせて名品を買い漁る外国人に我慢ができなかったのだ。
正蔵は大正元年に鬼籍に入った。それから15年後の昭和2年、金融恐慌が起こり、川崎造船所は大打撃を被る。川崎家では損失補填のため、正蔵が蒐集した美術品を売りに出さざるを得なくなった。その一つに《宝楼閣曼荼羅図》が含まれていた。
こうしてこの仏画は美術商・山中商会の手を経て、フリーア美術館の所蔵になる。日本にあれば国宝級の《宝楼閣曼荼羅図》が、「外人の阿堵物」によって海を渡った事実をあの世で正蔵が知ったとしたら、一体何を思ったであろう。
(3)へつづく
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