知られざる「日中」影の歴史 毛沢東暗殺謀議で処刑された「日本人スパイ」娘の告白

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「毛沢東暗殺謀議」で処刑された「日本人スパイ」娘の告白――相馬勝(1/3)

 日中平和友好条約の締結から8月12日で40年。光と影の歴史を重ねてきた両国だが、以下は「暗部」の最たるものか。戦後の混乱期に日本人がスパイとして処刑された「毛沢東暗殺謀議」の歴史秘話。ジャーナリスト・相馬勝氏が、実娘の告白を基に真相に迫る。

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「落ち着いて、しっかりと撃ちなさい――。

 北京南部、天橋地区の処刑場。父の後頭部を撃ち抜こうとした人民解放軍の若い兵士の銃弾は、父の右耳をかすめた。その際、父は失敗した兵士に中国語でこう声をかけて、気遣うような余裕すら見せていたといいます。のちに私は、この『父の最期』を、その場にいたある神父から聞きましたが、その声は落ち着いていたともいう。その時はきっともう、父には覚悟ができていたのだと思います」

――千葉県は浦安市内の自宅の一室。黄ばんだ手紙や色褪せた写真を前に、処刑された父について語り始めたのは、山口撫子さんである。齢81となる撫子さんだが、口調も記憶も明晰。亡き父のことになると、口調には情熱がこもる。

 戦後の混乱期、1951(昭和26)年に、あの毛沢東の暗殺計画を企てたとの「スパイ容疑」で、中国において死刑に処された日本人がいたことはほとんど知られていない。そして、その罪が「冤罪」だった疑いのあることも――。

 犠牲となったのは、山口隆一氏(享年46)。彼が刑場の露と消えたのは、8月17日の午後5時頃であった。

「当時の中国では、死刑囚は正座して後ろ手に縛られ、腰を曲げて、地面に掘られた穴に向かってうなだれているところを、後ろから拳銃を構えた兵士がその後頭部を撃ち抜くのです。目隠しはしていません。もちろん顔に布袋もかぶせてもらえず、死の恐怖と戦いながら、最期の瞬間を迎えるのです。父は次に発射された第2の弾丸で亡くなりました。覚悟の上とはいえ、さぞかし無念だったろうと思います」

――この処刑は、中国側も「それまでの中国の歴史で外国人が処刑された初めての例である」と明かしている。

 山口氏は中国をこよなく愛していたという。その彼がなぜ中国に命を奪われることになったのか。

 山口氏は1905(明治38)年、東京に生まれた。5歳のとき、三井物産の香港支店に赴任した父に従って4年間を香港で過ごし、「中国好きになった」と語っている。

 早稲田高等学院、京都帝大で学んだ後、31(昭和6)年に結婚。1男3女をもうけた。33年から宮内省に勤めたが、日中戦争に突入した翌年の38年、親族の勧めで中国の「華北航業総公会」に勤務することになり、家族を連れて日本占領地の青島(チンタオ)に赴任した。「総公会」は華北の沿岸を航行する船舶運航の管理・統制を担当するもので、実質的に海軍の支配下にあった。山口氏は44年には理事・北京事務所長に昇格。終戦を北京で迎えた。

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