ボストン美術館が“至宝の絵巻”を所蔵するワケ〈誰が「国宝」を流出させたか〉

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至宝を持ち出した日本人

 まずは、ボストン美術館からである。同館で特に挙げるべきなのが、「海を渡った二大絵巻」として知られる《平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)》および《吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)》(ともに作者不明)だ。

 前者の《平治物語絵巻》は、鎌倉時代13世紀後半の作で、平治の乱(1159年)の発端になった源義朝(みなもとのよしとも)らのクーデターを描く。現在3巻と残欠が存在しており、そのうち同館が所蔵するのは、「三条殿夜討巻(さんじょうどのようちのまき)」である。群れ集う武士や官人が三条殿に馳せ参じ、やがて三条殿から火の手が上がる様子は、ダイナミックな映像を見ているようだ。

 この絵巻をボストン美術館にもたらしたのは、お雇い外国人アーネスト・フェノロサ(1853〜1908)だった。東京大学に哲学の教師として招かれ、後に文部省と宮内省の美術行政官に転じた人物である。

《平治物語絵巻》は、もとは旧三河国西端(にしばた)藩主本多家の所蔵で、故あって市場に流出した作品だ。手に入れた道具商は500円(現在価値で約1200万円)で売り歩いたが買い手がつかない。たまたまフェノロサに見せたところ、言い値の倍にあたる1千円で買うという。ただし誰に売ったかは口外しない条件が付いた、という話が伝わる。どうもフェノロサは、この絵巻の海外持ち出しを政府が禁じることを懸念して、道具商の口を封じたようなのだ。

 もう一つの《吉備大臣入唐絵巻》は、吉備真備(きびのまきび)が遣唐使として唐に渡った際の説話を描いている。この絵巻が海外に流出した経緯にも、興味深い逸話が残っている。

 大正12年(1923)6月、旧若狭国小浜藩主酒井家が所有する道具類の売立があり、《吉備大臣入唐絵巻》が出品された。ある道具商が、すぐに買い手がつくと考えて18万8900円(現在価値で約4億5千万円)で落札した。ところが、あてにしていた得意先が余りの高さに購入を渋る。そのうえ、同年9月には関東大震災が起こり、結局絵巻は買い手がつかないまま道具商の蔵で眠ってしまう。

 それから約10年後の昭和7年(1932)、農商務省の海外実業練習生として渡米し、岡倉天心の知遇を得てボストン美術館の東洋部長に就任した富田幸次郎(とみだこうじろう)(1890〜1976)が来日し、この絵巻を目にする。素晴らしい作だと判断した富田は、6万〜7万ドル(現在価値で1億4千万円〜1億7千万円)で購入し、ボストンに持ち帰った。

 ボストン美術館では、翌昭和8年2月に出版した「紀要」に同館の新収品として、《吉備大臣入唐絵巻》を7点の写真入りで紹介した。日本の関係者は初めて海外流出を知って仰天したが、もはや後の祭りだった。

 当時、国宝保存法により、指定を受けた美術品は輸出が厳しく制限されていた。しかし同絵巻は国宝に指定されていなかったため、輸出しても法には触れなかったのである。

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