「ハンカチ王子」誕生に見た“75年前の因縁が呼んだ奇跡”――「夏の甲子園」百年史に刻まれた三大勝負

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75年前の因縁

 甲子園には、決して破られないだろう、と思われる大記録がいくつかある。「夏3連覇」もそのひとつだ。まだ全国中等学校優勝野球大会時代の昭和6、7、8年。夏の甲子園は、中京商の吉田正男投手の快速球と抜群の制球力によって、3連覇・14連勝という偉業が成し遂げられた。当時の中等学校は5年制。いまの3年制の高校では、選手が入れ替わるだけに、この記録は破られないだろうと言われてきた。

 だが、この不滅の記録に73年後、王手をかけた学校が現われた。駒大苫小牧である。すでに連覇を果たしていた同校は、絶対的エース田中将大を擁して、苦戦を続けながらも、3年連続、決勝に進出してきたのだ。

 私は、この大会が始まる前、まさか決勝が駒大苫小牧と早稲田実業になりはしないか、と秘かに考えていた。というのも、73年前に記録をつくった中京商に「最初の1勝」を献上したチームが早稲田実業だったからだ。しかも、その時のエースで4番、主将の島津雅男さんが92歳で健在だった。当時、私は、戦争や戦前の野球の生き字引だった島津さんに懇意にしてもらっており、その因縁を知っていた。島津投手は、昭和6年、夏は初出場だった中京商と1回戦で激闘をくり広げた。

 この試合は優勝候補同士の対決でもあり、9回2死まで中京商は、島津投手の前に2対3と、1点のリードを許していた。しかし、粘りに粘る中京商は、疲れを隠せない島津を攻め立て、2死満塁としていた。しかも最後のバッターはフルカウント。私は、この究極の場面について、90歳を超えた島津雅男さんから直接、何度も話を伺っていた。最後の一球を投じたときの腕の震えや、胸の苦しさを、島津さんは私に何度も語ってくれたのだ。

 中京商は、この土壇場で8番後藤が三遊間を抜き、3塁ランナーだけでなく、スタートを切っていた2塁ランナーも本塁に突入し、4対3と逆転サヨナラ勝ちするのである。同校はこの勝利を嚆矢(こうし)として夏の大会で14連勝を遂げ、2年後の昭和8年、今も破られない3連覇を果たすのだ。この試合は、中京商の部史の中で長く「死線を超えた勝利」として語り継がれる。この逆転サヨナラ勝ちがなければ、あの3連覇はなかったのだから当然だろう。

 甲子園に燦然(さんぜん)と輝くこの偉業の“最初の1勝”を献上した学校が、まさか75年後に、その不滅の記録に並ぶ学校の“最後の1勝”を阻止するために現われることなど、果たしてあり得るものだろうか。

 しかし、「あり得ない」ことは起こった。私は、引き分け再試合の末に決着したスコアが、75年前と同じ4対3だったことに、驚きを通り越して運命的なものを感じていた。

 100年にわたって、あまたの球児がくり広げてきた死闘。新しい100年もまた、甲子園が現代日本に残された最後にして究極の「勝負の世界」であることを証明しつづけるだろう。たとえ高野連や主催新聞社が綺麗事や美談を並べたてても、高校野球は独自の進化を遂げていくに違いない。

門田隆将(かどたりゅうしょう)
ノンフィクション作家。1958(昭和33)年高知県生まれ。中央大学法学部卒。雑誌メディアを中心に、政治、経済、司法、事件、歴史、スポーツなどの幅広いジャンルで活躍している。著書に『甲子園への遺言』『敗れても敗れても――東大野球部「百年」の奮戦』などがある。

週刊新潮 2018年8月2日号掲載

特集「『怪物江川』の登場! 『松井秀喜』が生んだ国民的論争!! 沸騰『夏の甲子園』百年史に刻まれた『三大勝負』――門田隆将(ノンフィクション作家)」より

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