オウム「大量刑死」と時代の終わりの「空気」
7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫を含む一連のオウム事件に関与した7人の死刑が執行され、同26日にはさらに6人が処刑された。ニュースを耳にして私の脳裏をよぎったのは、「大逆事件」だった。無論、凄惨なテロ事件と「主義者」一掃を狙ったフレームアップ(でっち上げ)はまったく別モノだが、「時代の終わり」の大量刑死という連想が働いたのだ。
近代日本の転換点、大逆事件とその時代の「空気」を描き切った傑作が、関川夏央原作・谷口ジロー作画の『『坊っちゃん』の時代』だ。大逆事件は5部シリーズの第4部『明治流星雨』で描かれる。
事件を少しおさらいしておこう。
明治43年(1910年)、宮下太吉、管野スガ(筆名須賀子)ら社会主義・無政府主義者4人が、稚拙な明治天皇暗殺計画の発覚によって逮捕された。当局はこれを「主義者」一掃の好機と見て幸徳秋水らを謀議に加わったとして強引に連座させ、一審のみの非公開裁判で24人に死刑判決を下し、明治44年1月24、25日の両日に12人が一斉に処刑された。翌45年7月に明治が幕を閉じる直前の出来事だった。
日本が軍国主義の強権国家に変わる転機となったこの事件は、複雑怪奇で全体の流れの把握が難しい。『明治流星雨』文庫版に解説を寄せた文芸評論家の加藤典洋は、彼があたった著作物の大半は全体像の理解の助けにならなかったと指摘したうえで、今作を「稀有な達成」と絶賛している。
ハレー彗星という「補助線」
マンガという表現手段の強みの1つは、イメージの細部を瞬時に読者の網膜に叩き込めることだ。
風景や室内の家具内装、服装の細部にとどまらず、人々の表情や仕草にまで及ぶ谷口ジローの抜群の描写力は、すんなりと読者を明治時代にタイムスリップさせる。同じことを冗長さなしに文学で成し遂げるのは至難の業だろう。
谷口の、細密ながら淡々とした画風により、読者は明治の空間に自然に溶け込み、物語(本シリーズは事実をベースにしたフィクションの形をとっている)は眼前の出来事のようなリアリティをもって迫ってくる。
原作者の関川は、このマンガの特性と谷口の描写力を存分に生かし、1人1人の登場人物を、リアルな個人として描く手法に徹している。軍事国家の設計者であり、『明治流星雨』でも不見識な弾圧の黒幕として登場する元老山縣有朋ですら、フラットな視点で、ただの「頑固な困った爺さん」として描かれる。幸徳秋水、堺利彦、荒畑寒村、管野須賀子などの主要キャラも、魅力的な個性を放ちつつ、「こんな人、いるな」という普通の人間たちでしかない。刑事や密偵たちですら、のどかさがあり、人間くさい。
この徹底したリアリティの土台が、ドラマティックな演出を支える。
最たるものがハレー彗星到来と事件の進行をリンクさせた全体構成だ。冒頭のさりげない会話からクライマックスの地球最接近時の大ゴマまで、計算しつくされた素晴らしい効果を上げている。タイトルの「流星雨」も含め、ハレー彗星という「補助線」を見つけたとき、関川は「これで行ける」とガッツポーズをしたのではないだろうか。小川洋子が「江夏豊の背番号28は完全数」と気づいたとき、ベストセラー『博士の愛した数式』が成ったように。
繰り返しアップで強調され、情念と運命の無常さを印象付ける管野須賀子の眼差し。「主義者」弾圧を山縣が明治天皇に密奏する朝、皇居の廊下で皇孫裕仁の教育を託されていた乃木希典に偶然出会い、「明治」と「昭和」を交錯させるシーン。ふいに「カメオ」のように挿入される夏目漱石や石川啄木、永井荷風ら同時代人たちの言動。全編にこうした「仕掛け」が満ち、再読するたびに発見がある(筆者はもう20回近く読んでいる)。
こうした職人芸は『『坊っちゃん』の時代』シリーズ全体に通じる。夏目漱石『坊っちゃん』の創作秘話に材をとった第1部から、森鷗外の「舞姫」事件を描く第2部『秋の舞姫』、借金まみれの石川啄木の生涯を追う第3部『かの蒼空に』、そして漱石が生死の境をさまよった修善寺の大患を軸に、明治、つまり「『坊っちゃん』の時代」の終わりを提示する第5部『不機嫌亭漱石』まで、等身大の人間を通じて、時代の「空気」を淡々と、それでいて精緻かつ大胆に浮かび上がらせている。
閉塞感の「世界トップランナー」
大逆事件の大量刑死は、同時代人に大きな衝撃を与え、維新から日露戦争までの日本の青年期の終わりを画した。ここから軍国主義が幅をきかせ、昭和の無謀な戦争へとつながるレールが引かれた。本作でも、元老山縣に体現される指導者層の危機感といらだち、何よりも西欧的個人主義の流入と社会の変化に翻弄される大衆の閉塞感と戸惑いが存分に描かれる。
オウム事件の死刑囚たちの一斉執行は、我々の社会にどんなインパクトを与えただろうか。メディア、ネット上で、今の日本の世相や閉塞感、あるいは政治状況を結び付けた論考がおびただしくなされた。ここで屋上屋を架すつもりはないが、私にあるのは、日本は、そういった時代の閉塞感でも「世界のトップランナー」だったのだな、という暗い感慨だ。
私見では、オウムの隆盛とその後のテロには、千年紀の終わりを前に高まった終末観(ノストラダムスの大予言!)や、バブル経済の膨張と崩壊による価値観のゆらぎが大きく影響している。社会全般の自信喪失や、「こんな世界はおかしい」という幼稚な正義感、「どこかに真実がある」と安易に正解を求める反知性的な怠惰が思考停止を生み、そのスキに入り込んだ教祖のカリスマ性と洗脳テクニックが信者を拡大させていった。一本道の陰謀論が、複雑な世界の理解に倦んだ人間に心地よい「解」となるのは、ユダヤ人迫害に見られるように、今も昔も変わらない。その先には、外の世界を敵対視し、折り合いをつける姿勢を失って、「世直し」と称した過激な実力行使が待っている。
私の目には、米国のトランプ旋風や欧州の極右・極左の台頭、Brexitという英国の選択といった現象は、おなじような閉塞感と反知性に覆われた時代精神の表出に映る。リーマンショック後の不安と怒りが、四半世紀前の日本のように社会のメルトダウンを引き起こし、少しずつ「実力行使」の例が増えているように見える。危険な兆候だ。
平成最大のテロ「オウム事件」にひとまずの区切りをつけ、平成の世は終わりを迎える。だが、残念ながら、先頭ランナー日本は、後続の欧米と同じトラックをまだ回っている。昭和天皇の崩御とそれに続いた手塚治虫、美空ひばりの死が、はっきりと昭和の終わりを感じさせたようには、オウム死刑囚たちの死は時代の句読点として意識されないだろう。
職人2人の「極上の仕事」
能書きが長くなった。マンガの話に戻ろう。
関川と谷口は『『坊っちゃん』の時代』シリーズを12年かけて完成させている。2人の職人が、30代後半から40代という脂の乗り切った時期に成し遂げた極上の仕事を見逃す手はない。
各巻、独立した作品としても読めるが、初めて手に取る方はぜひ、シリーズを通読してほしい。登場人物たちは第1部から、「文豪」の既存イメージを離れた人間臭い存在として丁寧に造形されている。5部の最終ページにたどり着いたときには、漱石以下の明治人たちがあなたの新しい知己に加わっているだろう。
最後に、“大人の”読者に注意を。文庫版は活字が相当小さい。46歳の私は、幸いまだ老眼鏡のお世話にはなっておらず、ギリギリ行けるが、もう「来ている」方はワイド版を選んだ方が無難だろう。第1部については、可能なら大判カラー愛蔵版の入手を強くお勧めする。愛蔵版の名に恥じない、出色の出来栄えだ。
※「独選『大人の必読マンガ』案内」では、『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』の作者、高井浩章が必読マンガを紹介します。「隠れた名作」ではなく、あえて文句無しの傑作をしつこく推薦して未読の方々の背中を押し、皆さんがうっかり読む前に死んでしまうリスクを軽減するのが本コラムの使命です。知らんけど。
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