潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 隠された“計画”と当事者たちのその後
隠蔽される真相
新聞記者が語る。
「海難審判庁の審理で、“なだしおの回避措置が決定的に遅れたのは、命令伝達の遅れが原因ではないか”との指摘があったのです。これに対してなだしお側は“面舵(右転)一杯の命令が予定通り艦橋からあったが、マイクが別の音を拾ってハウリングを起こして聞こえなかった”と弁明しています」
命令を発したのは荒井哨戒長で、それを受けたのは発令室の武藤操舵員だった。
「武藤操舵員は“面舵一杯の『面舵』の部分が聞こえなかった”と言い、荒井哨戒長に“再送”、つまりもう一度、命令を送ってくれるようにテレトークで伝えた、と証言しています」
だが、事実は違った。MCはハウリングなど起こしていなかったのである。武藤の供述が、驚くべき事実を浮かび上がらせる。
「ちょうど艦橋から面舵一杯という号令が来た際に、運転室から7MCのテレトークを使って艦橋および発令室にあてて“運転室配置よし”という言葉が言われた。そうした二つの言葉が重なり、面舵一杯の面舵部分が聞き取れなかったのです」
前号(※前回参照)で述べたように、なだしおは衝突直前、右に転回したものの、間に合わず、衝突している。事故後、武藤は“運転室配置よし”の命令があったことを隠し続けた。
「私は当初から面舵一杯の号令がよく聞き取れなかった理由が“運転室配置よし”という言葉と重なったため、と記憶していましたが、海上保安庁、ならびに検察庁の昨年における事情聴取の際には、本当の理由を言えませんでした」
武藤に沈黙を強いたのは、N1テスト計画だった。
「“運転室配置よし”というのは、N1運転、つまり前進強速度よりも速い、最大戦速の準備ができている、という意味だったからです」
もし“運転室配置よし”の伝令が明らかになると、極秘のN1計画まで知られてしまうことになる。武藤は全てを知りながら口を噤(つぐ)んだ。
裁判の模様を詳細にルポした『なだしお事件』(上村淳著、第三書館)は、N1計画について次のように書く。
〈船舶の多い東京湾内でこのような試験をしようとしたこと自体、衝撃である。仮に事故の直後に明るみになっていれば、マスコミでも国会でも大きな問題になっていたに違いない。海上保安庁に話すのはまずい、という考えが乗組員の間で出たのは当然だろう〉
N1の問題は横浜地裁の刑事裁判で検察官によって追及されたものの、マスコミは殆ど報じず、無視された形で終わっている。新聞記者が語る。
「難解な専門用語が飛び交う海難審判で、既にうんざりしていたんです。傍聴席で眠っている記者も多かった。しかも、刑事裁判の公判が始まったのは平成2年の12月10日。事件発生から2年半近くも経過していた。加えて、判決まで2年を要してね。世間の事件への関心は薄れるばかりだったし、記者連中も、N1とかMCとか言われても、よく理解できていなかったんですよ」
艦長の山下は、刑事裁判の法廷で第一富士丸側の弁護人から「N1運転のことを事故直後の段階であなたは供述されていませんね」と指摘された際、こう答えている。
「そういうことは全く事故と関係ないし、私はとっくに忘れておりました」
だが、山下は衝突直前、ある行動に出ている。それは部下にも理解できない、不可解な行動だった。自衛隊関係者が語る。
「哨戒長の荒井は、右前方に漁船(第一富士丸)、左間近にヨットのイブⅠ(ワン)号を認めた段階で、艦首を右前方の漁船に向けるよう、山下に進言しています。ところが山下は“おれがとる”と言い、自分で操縦の指揮をとってしまいます。これは極めて異例のことで、ヨット1隻くらい、部下に任せるのが普通なのです」
操縦の指揮といっても艦橋に舵は無く、テレトークで艦内に指示を与えることになる。
「事故後、囁かれたのが、山下はN1運転を自分で行うつもりではなかったのか、ということでした」
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