潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 自衛隊が隠していた“ある真実”
阿鼻叫喚の船内
近藤は、10ノットの速力(1ノットは1時間に1海里・1852メートル進む速さ)を7ノットに下げ、舵輪を左に回した。その時、近藤は自分の目を疑った。なだしおも右転を始めていたのだ。万事休す。第一富士丸となだしおは右舷同士で激突した。その瞬間、近藤は舵輪を握り締め、「ばかやろう!」と叫んでいた。
第一富士丸は、涙滴型のなだしおの上にズズッと乗り上げた。一瞬、近藤はスッと元に戻るのではないか、と思った。だが、船体は近藤の期待に反して、ゆっくりと左に傾(かし)いだ。まるでスローモーションを見ているようだった。
横井はサロンの入り口が水浸しになり、沈んでいくのを見て、これはダメだ、沈没する、と覚悟した。すぐそばに転がっていた黒いブイの穴にロープを通し、息子の胴体に結び付けると同時に船がグッと大きく傾き、デッキから海へ滑り落ちた。
横井が海面に顔を出したとき、息子の姿は消えていた。横井はクーラーボックスにつかまり、必死に辺りを見廻した。100メートルほど離れたところでブイにしがみついている息子が見えた。後に横井はゴムボートに、息子は近くを航行していたタンカーに救助されている。
船長の近藤は海に投げ出された後、目の前に浮いてきた救命用のイカダに他の二人と共に取り付き、救助を待った。救助に駆けつけたのは、ヨット「イブⅠ(ワン)号」だった。イブ号は、なだしおから左前方約300メートルの地点を航行しているとき警笛を鳴らされ、左転して避けた後、事故を目撃している。艇長の足立利男(52)が証言する。
「私が左転してなだしおをやり過ごした後、その向こうに白い漁船が見えました。それが第一富士丸で、左転後、帆走していたら、なだしおと衝突したのです。なだしおは進路も速度も、変わったようには見えませんでした」
足立は帆を畳み、エンジンを回して10分後、事故現場へ駆けつける。海面には重油が浮き、第一富士丸の姿は影も形も無かった。
「近藤船長ら3人が乗った救命イカダが近づいてきたので救助しました。3人ともズブ濡れでしたが、体力を消耗しきっているという感じではありませんでした。3人のうち、誰かが“まだ(船の)中にいっぱいいますよ”と言ったきり、黙り込んでしまいました」
船の中は地獄だった。サロンと客室には多くの乗客が残されていた。横倒しになった第一富士丸はわずか1分ほどで沈没している。
4日後の27日早朝、水深50メートルの海底から引き揚げられた第一富士丸の船内には、20名の遺体があった。惨状を極めたのはサロンだった。一つきりの出口に殺到し、6人が折り重なるようにして倒れていたのだ。乗客乗員48名のうち、30名が亡くなるというこの大惨事は、自衛隊を窮地に追い込んだ。新聞記者が語る。
「最新鋭艦のなだしおと釣り船の第一富士丸では、ダンプカーにバイクがぶつかったようなものです。しかも民間人ばかり30人も犠牲になったから、世間の非難が集中した」
加えて、事故後の自衛隊の対応が火に油を注いでしまう。
「第一富士丸の近藤船長がその夜の7時過ぎ、横須賀海上保安部の庁舎内で事情聴取に応じたのに対し、なだしおの山下啓介艦長は出頭しなかった。自衛隊側が“いまは聴取に応じられない”と拒否したのです」
結局、聴取が実現したのは午後11時過ぎ。それも、海上保安部の係官が、事故現場に留まっていたなだしおに出向いて行う、という異例の形での事情聴取だった。
「事故後、7時間も空白があった。この間、自衛隊幹部もなだしおの中に入っている。なんらかの口裏合わせがあったと疑われても仕方がない」
艦長の山下啓介は当時39歳の2等海佐。防衛大学の15期生で、3月に艦長へ就任したばかりだった。自衛隊関係者が語る。
「山下は幹部候補生学校をトップクラスで卒業した、エリート中のエリートだった。“地味な潜水艦乗りから海上幕僚長が出るとしたら山下しかいない”と言われたほどの逸材。それだけに、自衛隊もなんとか守りたかったのです」
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