後悔、葛藤、苦悩… 死刑執行されたオウム「井上嘉浩」が綴った獄中書簡300通
死刑求刑
――が、12月24日の検察の論告求刑は想像以上に厳しいものだった。「死刑求刑」こそ、予想されていたものの、その理由を検察は「被告は公判では自分の都合のよい言い訳を並べ立て、共犯者に責任を転嫁するなど、反省悔悟の情が見られない」とした。これまで検察がオウム犯罪の立証の中核として立ててきた“証人”を、自ら「信用なし」と切って捨てたのである。井上は、4日後、こんな手紙と詩を実家に送ってきている。
《悪いこともよいこともそうあるべくして流れていくと信じています。果てしない輪廻の中では、今生は息を吸って吐くほどの時もないかも知れません。この世は本当に塞翁が馬です。どんな条件でも、真実を見つめ、生き抜くものにこそ、人生の宝物が届けられ、いつの日か、多くの人たちのためになると確信しています。(略)独房に戻った時、これまで世界各地で、同じように求刑された人の苦しみが、私の内に吸収されますようにと祈りました。犯した罪の重さからすれば、この求刑を受けなければ、カルマは落ちないと感じています。論告の内容にも、ここまで云うか、というぐらいに事実を歪められているところが多く、そこに又、慈悲の働きを感じています…
――息吹――
それで、どうしたと云うんですか? 私の心はそのままです
世俗の力に押しつぶせるものと、押しつぶせないものがある
わたくしの心の奥底にあるものは、誰の目にも見えません
評価がどうだというんですか? 私は一生懸命やってきたつくられた刑にズレた嘘であっても、私には真実です
わたくしの心のかなしみと輝きは、ひっそりと力を蓄える
悲しみも喜びも、罪も罰も本当はどこにもない
幻惑の力にもみくちゃにされる命を慈しむ大きな命
悪人非道のわたくしですが、心の奥底に命が芽生えています(平成11年12月28日)》
《今の時は、次は過去となり、そこにない。でも、心の中にきざみこまれ、人は過去と未来の牢獄に投げ込まれる。出口のない迷路のように
人が罪などつぐなえるはずがない。人としてあることがすでに罪となりうるこの輪廻でも、同時に人は輝いている存在のめぐみのやさしさと残酷さ
大地の深みに命の息吹きがにじみでるように罪の底に触れるなら、きっとやさしさがにじみでる。自分も他者も共にいやすやさしさが(平成12年1月5日)》
《人の命をうばうとは一体どれだけのものか、いくら苦しんでも苦しみきれません。
希望と恐れは実に、深く、いかにしみついているか、いやになるほど味わっています。
生きる意味をつくっても、つかみどころがなく、それでも自分の存在に価値を与え、たてようとしていることが、なさけないと思えど、やみがたい。
50年、妄想を追いかけまわすより、1年でも3カ月でも、他者のために祈り生きるほうがいい。
ぼくはなにもできない。でも他者のために祈ることはできる。どうしようもなく苦しむ中で、誰のためでもなく、ただ祈らずにはいられない。(平成12年4月19日)》
苦悩の末に辿りついたもの
――当初、贖罪の気持ちを瞑想や修行という“宗教”に賭けることによって果たそうとしていた井上は、最後にそれとは違った心境を綴るようになる。
《父さんへ
この世での幸福や名声がかなえられていくなら、この世はよろこびとたのしみ以外ないでしょう。でもそんな人はだれもいない。
苦しみもあり、よろこびもあり、つつましく他者のために生きながら、充実したなにかをみつける、それが一つの理想とされるかもしれません。
でも、それでは真実に触れることはできないと思っています。苦しんで苦しんで苦しみ抜くことで、はじめて知るものがあります。逃げ場のないところでこそ、はじめて、不動なものがあるはずです。生きることは絶望の淵に触れることによって、はじめて輝きを知る。それを感じはじめています。(平成12年5月12日)》
――こうして井上嘉浩は、6月6日の判決を迎えたのである。獄中書簡を読んだジャーナリストの有田芳生氏がいう。
「この書簡に貫かれているのは、自らの犯罪への激しい後悔と被害者への限りない償いと哀惜の心情にほかなりません。検察は、“反省悔悟の情がない”と論告求刑で言いましたが、それがいかに根拠がなく、被告の実態からかけ離れていたかが、よく分ります。苦悩に満ちた一人の若者の心の軌跡は、加害者、被害者の垣根を越えて傾聴に値するのではないでしょうか」
判決言い渡しで、井上弘通裁判長は、「被告は最後になって、宗教的なものに逃げ込むことから離れ、人としてどうあるべきか、自分の命を投げ出して法の裁きを受ける、という真の反省に到った」と述べた。獄中書簡には、まさにその通りの一人の若者の心の軌跡があった。井上が苦悩の末に辿り着いたもの――それこそが、償っても償いきれない自らの罪のはかり知れない大きさだったのである。
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