後悔、葛藤、苦悩… 死刑執行されたオウム「井上嘉浩」が綴った獄中書簡300通
7月6日に死刑が執行されたオウム真理教の幹部7名のうちの1人が、教団の「諜報省長官」だった井上嘉浩元死刑囚(執行時=48)である。
地下鉄サリン事件でアジトや車を用意する任を担った井上は、逮捕後には証人として、オウム裁判の法廷に100回以上立ち、検察の立証に協力。自身も、最後まで再審請求を申し立てていた。そして死刑執行前には、「こんなことになるとは思っていなかった」と語ったと伝えられる。
週刊新潮は2000年6月15日号で、井上が獄中から家族に宛てた書簡を独占入手し、掲載している。以下に、当該記事を再掲するが、その文面からは、ひとりの若者の苦悩と心情が赤裸々に綴られていた。(編集部註:再掲した記事の年齢や肩書などは当時のものです)
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【「死」と向き合う仕事師たち】「人の肉体は最後にはこうなるのだ――」
――井上はオウム被告の中でも特別な存在だった。かつて麻原彰晃の忠実な弟子だった井上は、逮捕後、苦しみぬいた末、オウムを脱会。やがて、オウム犯罪を告発していく。地下鉄サリン事件をはじめ井上が起訴された罪状は10件。しかし、直接、自ら手を下した殺人は皆無だった。家族に宛てた手紙の総数は300通近くにのぼり、そこに記された詩は、ゆうに900編を超える。そこには、自ら犯した罪と必死に向き合おうとする若者の姿があった。自らの初公判を経て、井上はこんな手紙を家族に送っている。
《ちょうど一年前、私は新聞、雑誌、テレビなどでやり玉に上がり、まったく無防備にバッシングされ続けていました。そして今回の裁判の報道は全く反対の内容でした。確かに私の対応が変わったこともありますが、まさしく賞賛とあざけりは同じであることを感じます。大切なことは、賞賛もあざけりにも全く関係なしに、信念を持って生きることであるとつくづく感じます。(平成8年5月11日)》
《父さんへ
おそらく、弟子の中では、もっともはじめに、教祖の法廷にでることになりそうです。教祖の罪を証言することは、自分の罪をみとめること以外ありません。とにかく、死人となりながら、未来を切りひらく気迫でいどむつもりです。
「死人は、もっとも自分に忠実であり、全てを捨ててしまっているからこそ、失うものもなにもない。真の死人こそ、真の生命なり」(平成8年6月23日)》
《暑い時には、全ての暑さの苦悩を吸収しよう。
つらい時には、全ての人々の悲しみ、つらさを自分の内に吸収しよう。
孤独の時には、全てのさびしさを自分の内側に吸収しよう。
そして、私の全ての功徳やエネルギーを、暑さや悲しみ、さびしさにうちひしがれた人に与えよう。
もし、私が生きるということで、何かの価値があるとすれば自分の持っている全てを苦しんでいる人に与えることができるかどうかにあると思う。
あらゆる苦悩を吸収し、すべての衆生に利益を与えつづけること、しかも、自分をなげすてて、それが、私の心の本質からの願いです。(平成8年8月2日)》
――脱会後、最大の試練となったのは、平成8年9月20日の尊師との法廷対決である。井上は、その時の様子を手紙にこう書いている。
《9月20日の法廷、なんとか、努力できたと思います。
何度か、思考がにぶりましたが、証言の際に、ラマの教えを思い出し、一心乱れず集中しようと努力しました。本音の事では、松本氏が、私のとなりで、いっしょうけんめいヨーガのトゥモという呼吸法をして、熱エネルギーを起こし、私に念をかけてきているのが、よくわかったのですが、同時に、オウムの修行では、これしか教祖ができない現実を知って、大変、哀れみを感じたこともありました。今の条件をつくってくださった方々の何かひとつ欠けてもあのように証言することはできなかったと思いました。本当に多くの人達のおかげであると感謝しています。
「心の中にとらわれが在れば、念をかけられることにより、とらわれがとらわれを生み、心乱れ、言葉も乱れてしまう。心の中にとらわれなければ、念をいくらかけられようと、その念はただすぎてゆき、心も言葉も乱れることなし。内なるラマとともにある心は、自然の妙に出入り自在なり」(平成8年9月23日)》
《19日の法廷の時、松本氏はひたすらぶつぶつ言って、自分はこのようなストーリーだから、事件と関係ないんだといって、証言台にいる私にきこえるように、ひたすら言ってきました。それに私は一切、反応しなかったので、とうとう「そんなことばっかり言っていると、地獄におちるぞ」と言ってきました。一瞬、「地獄も、ニルヴァーナも、すべて自分の心に現れるものだ、今のあなたがオウムそのものだ」と反論しようと思いましたが、次から次へと弁護士が尋問してくるので、そのままほったらかしのままとなりました。ただ、何かのきっかけがあれば、これからは、その時、自然に、口からでてくるものは、おさえず証言しようと思っています。最近、何度も法廷に出ていくにつれて、法廷で大切なことは、自分に素直になりきることであり、ありのままの自分をありのままに、法廷という場で、すっ裸にさらけだすこと、それでいいんだと思うようになりました。(平成8年12月23日)》
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