早大新総長「田中愛治」教授の父親は大物右翼 昭和史に残る“フィクサー”
共産主義者から天皇主義者へ
【生年】
清玄:1906(明治39)年
愛治:1951(昭和26)年
【出生地】
清玄:北海道
愛治:東京都
【卒業高校など】
清玄:旧制函館中(現:北海道函館中部高)→旧制弘前高(現:弘前大)
愛治:私立武蔵中・高
【大学】
清玄:東京帝大文学部
愛治:早大政治経済学部
父も息子も共に秀才コースをまっしぐらに進んでいるのが分かるが、父親の田中清玄は普通の優等生ではない。そもそも旧制弘前高時代に軍部を批判するビラを撒いている。そして東大に入ると、左派活動に邁進していった。年表形式でまとめさせていただく。
1927(昭和2)年:東京帝国大学に入学すると、学生運動を行う「新人会」に入会、9月に日本共産党に入党。
1928(昭和3)年:検挙で党指導部が崩壊。建て直しに奔走、いわゆる「武装共産党」を再建。
1929(昭和4)年:東大中退。
1930(昭和5)年:2月、和歌山県で警察側と共産党が銃撃戦。母親が自決。「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまない。自分は死をもって諌める」との遺書が残されていた。7月に治安維持法違反で逮捕。
1934(昭和9)年:獄中で天皇主義者に転向。
1945(昭和20)年:8月の敗戦を受け、12月に極秘で昭和天皇に拝謁。「退位すべきでない」と主張。
1949(昭和24)年:中曽根康弘(100)と共に、群馬県の労働組合切り崩しを行う。
田中清玄と田中角栄
1960(昭和35)年:月刊誌「文藝春秋」1月号に「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」を寄稿。全学連の安保闘争に強い共感を示すも、限界も指摘。それが縁で全学連指導部と交流するようになり、極秘に資金援助を行う。
1963(昭和38)年:4月に山口組三代目組長の田岡一雄(1913〜1981)や、参院議員の市川房枝(1893〜1981)らと「麻薬追放国土浄化同盟」を結成。11月に東声会組員に狙撃され、重傷を負う。犯人は「田中清玄が三代目山口組を利用して関東やくざを撹乱しようとしているとの風評から狙撃した」と供述した。
1974(昭和49)年:親交の深かった経済学者フリードリヒ・ハイエク(1899〜1992)がノーベル賞を受賞、受賞式のメインテーブルに唯一の日本人として招待される。
という具合だ。単純な右翼、左翼は裸足で逃げ出すだろう。圧倒的な行動力と人脈には改めて瞠目させられる。確かに「怪物」としか形容できない。文字通りの波瀾万丈、疾風怒濤の人生だが、まだ中盤に過ぎない。
元首相の田中角栄(1918〜1993)との関係は、ジャーナリストの徳本栄一郎氏による「米英の機密文書にタフネゴシエイター『田中角栄』の残像」(週刊新潮16年11月17日号)に詳しい。漢数字を英数字に変えた上で、内容の一部を引用させていただこう。
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