桂歌丸さん逝去 笑点50周年で語った「最後は落語家として終わりたい」

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 落語家の桂歌丸さんが、7月2日に亡くなった(享年81)。歌丸さんといえば、長年の「笑点」出演でお茶の間に親しまれた存在。番組から引退した2016年には、週刊新潮のインタビューに応じ、「最後は落語家として終わりたい」と語っていた。

 以下は2016年5月19日号に掲載された「『笑点』50年!『桂歌丸』誌上独演会」記事である。※データは掲載当時のもの。

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「あたしを世に出してくれたのは、五代目古今亭今輔師匠と四代目桂米丸師匠、そしてやっぱり『笑点』ですね。この3つが、あたしの大恩人だと思ってます」(歌丸師匠、「」以下同じ)

 日本テレビの演芸番組『笑点』(日曜午後5時30分~)の放送が始まったのは、今から50年前の1966年5月15日。当初は『金曜夜席』という名前で、隔週の金曜日の午後10時30分から放送していた。歌丸師匠は29歳で、厳しい修業中の身だったという。

「よく言われるのは、『あのメンバーだから人気が出たんじゃないか』ってこと。でも、あたしの感覚はその逆で、『これから売れそうな人を集めたから人気が出た』と思っています。それが出演者を選んだ(七代目立川)談志さんの凄さだと思うんですよ。だからあたしはこうも言います。2人の師匠と『笑点』以外の恩人は立川談志だってね」

談志が選んだメンバー

 そもそも『笑点』は、立川談志の発案だった。関係者によれば、「寄席でやっている大喜利をテレビでやろう」という一声がきっかけで、当時は「演芸」「談志とゲストの対談」そして「大喜利」からなる3部構成だった。

「当時は、あたしも談志さんとの付き合いはほとんどありませんでした。だけど、あの方は大変マメなんです。あの頃は、寄席でも大喜利や娘都々逸、謎かけだとかをやっていましてね。お客さんから『質屋の娘』とか『魚屋の娘』という具合にお題をもらうんです。

 小噺会っていうのもありましたけど、それに出ていたあたしのことを談志さんが見に来ていたらしいんです。先代の(四代目柳亭)痴楽師匠が東宝名人会で若手を使って小噺会を開いていましたが、そういう会に出ていた若手のことを談志さんはチラチラ覗きに来ていたというわけですね」

 豪放磊落な印象とは裏腹に、談志は普段から落語界の後輩の姿を観察していたという。それにより、晴れて番組のレギュラーメンバーに選ばれたのは歌丸師匠始め、五代目三遊亭圓楽、柳亭小痴楽(後の春風亭梅橋)、三遊亭金遊(後の小圓遊)、そして林家こん平の5人だった。真打は初代司会者の談志と圓楽だけ。ほかは全員二ツ目だった。

「談志さんにしてみれば、これから落語界を背負って立つメンバーを選んだということなんでしょう。それぞれの所属先が落語協会とか落語芸術協会というように違っても、関係なく声を掛けて誘っていました。そういうのに囚われる狭い感覚ではなくて、単純に“面白い奴”を選んだということだと思います。あたしが言うのも何だか口幅ったいけれども、その後は大喜利メンバー全員が人気を得て落語界を支えてきた。そういうところは、まさに談志さんの炯眼(けいがん)でしたね」

 ところが、当初の思惑とは裏腹に視聴率は思うように伸びなかった。

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