「原発事故」風評をバネに「日本一の醤油」を造り続ける福島「老舗醸造元」山形屋商店(下) 

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 福島への応援ムードが一気にしぼんだのは、東日本大震災の翌2012年。きっかけは、当時の野田佳彦首相がその前年の12月16日に行った福島第1原発の「収束宣言」だった。

「原子炉が冷温停止状態に達し、発電所の事故そのものは収束に至ったと確認された」と言うものの、「炉心や燃料を完全制御できていることを確信できる根拠はなく、宣言は早計ではないか」(桜井勝延南相馬市長・当時)、「事故発生以来、国や東京電力の情報開示には不信感があり、まともに受け止められない」(馬場有浪江町長・同)などと被災地の首長から非難が殺到。県議会は「宣言」撤回を求める意見書まで採択した。

 さらに原発事故への世論の不安を高めたのが、相次ぎ明るみに出た福島第1原発の汚染水流出事故だった。

 相馬市では、相馬双葉漁協の漁業者たちが操業自粛に追い込まれ、放射性セシウムの基準値を下回った魚介のみを販売の対象にする「試験操業」が始まったのが、2012年6月。 

 山形屋商店はカナダ産の大豆を醤油の原料に使っているが、この年、県醤油醸造協同組合全体の売り上げは震災前の6割以下に激減。原因は明らかに風評だった。その「風圧」の強さは汚染水流出のニュースが流れる度にぶり返し、あらゆる福島県産の商品を巻き込み、2013年夏には県内陸部で獲れたモモの値段まで下落した。

ヒントは酒造組合の取り組み

 生揚げを一括生産する協同組合の工場長から各醸造元に、「勉強会を始めませんか」「全国醤油品評会に福島の醤油を出しましょう」という呼びかけがあったのは、震災から半年余り過ぎた2011年10月末のことだった。

 震災の被害を乗り越え、原発事故という先の見えない状況で、1社の努力だけでは限界と考えていた渡辺さんは、「お互いの品質向上」を目指して、参加を決めた。集まったのは、浜通り、中通り、会津から18社。当初は純粋に技を磨き、品質を上げるための研修だったが、原発事故の風評が新たな災害としてのしかかってくるにつれて、渡辺さんらは危機感を持ち寄るようになった。

「商品を検査し、お客さんに数値で安全を伝えるだけでは足りなかった。福島というだけで『不安だ』『中身に何か残っているのでは』と心配される。風評が人の心に根差す問題ならば、人の心を動かすくらい確かな品質を証明しなくてはいけない。それには全国醤油品評会で『日本一』になることが一番。いつしか本気で日本一を目指すようになった」

 全国醤油品評会は、1973年から毎年開催されている財団法人日本醤油技術センター主催のコンテスト。各県の予選を通過した県代表の商品2百数十点が東京の本選に出場し、3次にわたる審査で「色」「香り」「味」が吟味され、最も優れた商品4点に最高賞の農林水産大臣賞が贈られる。

「品評会は、名の通った大手、中堅メーカーが出るところで、地方の小さな醤油屋には無縁だと思っていた」と渡辺さんは振り返る。

 勉強会では、「日本一」の品質がどんなものなのかを具体的に研究することから始まった。それまでの品評会で上位入賞した全国の醤油を取り寄せ、メンバーたちが「利き味」をして意見を出し合い、工業試験場の福島県ハイテクプラザの主任研究員にも参加を要請。科学的な分析を試みた。

「その研究員は、先駆的な取り組みで『日本一』を獲得した福島の日本酒造りの指導役だったんです」

 日本酒の業界にも、年ごとに各地の酒の味と品質を吟味する「全国新酒鑑評会」がある。2006年、福島県産の日本酒は「金賞」の数で初めて日本一になった。その原動力となったのが、県酒造組合が1992年に杜氏の後継者不足を補おうと立ち上げた「県清酒アカデミー」。各蔵元の社員らが3年間で約50日、専門家による酒仕込みの実習や醸造学の講義などを受ける養成所で、酒蔵間の古い壁を超えてレベルを底上げしてきた。

「醤油と日本酒とは同じ醸造業。県酒造組合の取り組みが刺激とヒントになった。それぞれの『門外不出の技』が技術交流の壁になっていたが、18社が経験や知恵、悩みを出し合いながら議論を進め、新しいものを学び合った。『チーム福島』になれた」

 その連帯を培ったものが、福島の醸造元が分かち合う「生揚げ共同生産」の歴史であったことは、言うまでもない。

福島から東北最多の入賞商品

 2013年4月、渡辺さんは勉強会の成果を伝統の製法に生かし、初めて全国醤油品評会へ向けて仕込みをした。3代目の正雄さんは前年の1月に他界し、渡辺さんは名実ともに「ヤマブン」の暖簾を背負っていた。

「実は、40年前の第1回品評会に3代目が出品し、優秀賞に選ばれていた。自分もやれるだけのことをやり、最高のものを出そうという一心だった」

 ヤマブン本醸造特選醤油は同年6月に県の予選を通過し、7月4、5日に東京・日本橋の醤油会館で催された「第41回全国醤油品評会」に出品された。出品総数は263点で、ヤマブンのような「こいくちしょうゆ」が180点で最激戦区だった(他部門は「うすくちしょうゆ」「たまりしょうゆ」「さしみしょうゆ」など)。

 1次審査は官能評価で、審査員による「色」「香り」の総合評価点が集計された。29点に絞られた「こいくち」に、ヤマブンは入った。続く2次審査は、36人の審査員全員が「色」「香り」「味」を個々に吟味し、評価点による順位付けをする。最終審査は、どの賞にふさわしいかが審議され、「農林水産大臣賞」4点の他、「食料産業局長賞」7点、「優秀賞」30点が決まった。

 ヤマブンはその最高賞の1つに選ばれた。「結果発表を聞いて、ただ驚きだった」と渡辺さん。が、すぐに誇らしい思いに変わった。

「私たち小さな醤油屋が力を合わせた『チーム福島』の成果が表れた。全国のどこにも負けない品質が証明された」。

 表彰式で、過去3年連続日本一になったことのある宮城県加美町の「今野醸造」の社長と隣の席になり、目標と仰いだ先達から「山形屋さんが最高評価点でしたよ」と教えられたという。

 福島の醤油にとって初めての快挙は、ニュースとなって地元に届いた。お客たちの「おめでとう」という声とともに「やっぱり、おいしかった訳だ」という声が、渡辺さんには嬉しかった。受賞を機に、震災以来途絶えていた市内の旅館との取引も復活した。

「山形屋商店の150年来の造り方が正しかったという自信になった」

 全国各地から問い合わせの電話が鳴るようになり、車で1時間余りの仙台市から「日本一の醤油を探して来た」という客も相次いだ。「福島のものは買わない、使わないという風評の壁に、1つ風穴を開けられた」

 この成果を弾みに「チーム福島」の研鑽と挑戦は続き、昨年は山形屋商店が4度目の日本一に輝いただけでなく、福島県の醸造元からは東北最多の入賞商品が出た。

父に導かれた娘たちの帰郷

 山形商店のホームページには、「ヤマブン姉妹のそうまに恋して♡ 『醤油・味噌の相馬ヤマブン山形屋』看板姉妹の日々のくらしをつづります』というブログがリンクされている。書き手は渡辺さんの双子の娘、ゆきのさん(29)と絢華さん(29)だ。家業の醤油にちなむ話だけでなく、休日に足を延ばした相馬市内外の良い店、良い風景、楽しい催しなどを軽やかな文章ときれいな写真で紹介している。

「いままでSNSを活用していなかったので、できる方法で発信しようと始めました」

 ヤマブンの暖簾の下で毎日、父親を手伝っている。2人とも東京の大学を卒業し、そのまま東京で仕事をしてきた。一緒に帰郷したのが2年前の春だ。

「震災が起きた2011年3月、大学の卒業式が中止になった。『大丈夫だから、心配するな』と父から言われたが、原発事故で放射能の感覚が分からないまま不安に過ごし、メルトダウンという言葉も耳にし、状況をネガティブに考えた。でも、父の頑張りを知り、日本一の賞にびっくりした」

 ゆきのさんがこう語れば、絢華さんも続ける。

「相馬の名を東京で知る人はいないと思ったけれど、震災後はいろんな意味で有名になった。家族も忙しくなり、何かできることをしたい、後悔したくないと思い、姉と2人で帰りました」

 姉妹は家業に役立てようと「発酵マイスター」(日本発酵文化協会)の資格を取り、渡辺さんから「新商品開発」の役目をもらった。「加工品のドレッシングや木の実の味噌を作ったりしています。成果はこれからですが、10年以上離れていた古里を再発見しながら発信をし、将来は本格的に継ぎたい」

 2人の帰郷もまた、挑戦する父の背中に導かれた決断だった。若い世代の参加は、地元相馬のみならず、福島の醤油の未来にとって希望だ。 

「県の協同組合全体の売り上げは、いまだ震災前のマイナス43.2%。風評を理由に仲卸業界が販売にブレーキを掛けている面もある。だからこそ今年も『チーム福島』で日本一に挑みたい。同情ではなく、尊敬によって消費者に選ばれる。そんな醤油を目指していく」  

 今年の「第46回醤油品評会」の本選は7月5、6日。渡辺さんの終わりのない挑戦は続く。

寺島英弥
ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。

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