「原発事故」風評をバネに「日本一の醤油」を造り続ける福島「老舗醸造元」山形屋商店(上)

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 うまい醤油(しょうゆ)の命である「香り」「赤み」「つや」「風味」。それらを競う毎年恒例の「全国醤油品評会」が7月5、6日に開催される。注目は、5度目の「日本一」を狙う福島県相馬市の老舗醸造元「山形屋商店」。いまだに続く「福島産」への風評を克服しようとの信念から、今年も挑戦する。                              

1863年創業の「ヤマブン」

 山形屋商店は1863(文久3)年、伝統行事「相馬野馬追」(そうまのまおい)で知られる城下町の相馬市で創業した。今も城下町の面影が残る通りに、同店は「ヤマブン」の屋号紋が描かれた古い暖簾を掲げている。

 今年6月上旬、店を訪ねると、年配の主婦が来ていた。家庭での味噌造りについて、5代目店主(合資会社山形屋商店社長)である渡辺和夫さん(48)から指南を受けていたのだ。

「甘めがお好みでしたら、大豆1斗(18リットル)に、通常は麹(こうじ)10枚のところを12枚入れます。塩は天日(てんぴ)結晶塩がいいでしょう」

 得意客の家庭は約500軒あるが、その多くが自家製の「手前味噌」を造っている。各家庭には、ひいおばあちゃんらから代々受け継がれてきた味噌おけがあると言い、味噌造りは相馬の暮らしの文化になっているた。

 山形屋商店はその伝統を支え、時に相談に乗り、時にオーダーメイドの醸造も引き受けているという。店の自慢である麹を買い求める客から、自分の畑で作った大豆、あおばた豆、収穫したコメを店に持ち込んで醸造を託する客、さらには「この塩で仕込んで欲しい」と言うこだわりの客まで、実に多様だ。

 自家製味噌の出来高は、5人家族なら1年分で50~60キロが標準だが、「多いところで200キロくらい造ります。1、2年かけて、家族で毎日食べたり、遠くに住む身内に贈ったりして、また仕込む。そんな暮らしをお手伝いさせてもらってきた」と、渡辺さん。

「味噌は医者いらず」と言う。ただし、スーパーの商品棚に載る殺菌済みのパック商品ではなく、生きた菌が発酵し続けている老舗醸造元の無添加、天然醸造の栄養価が高い生味噌のことだ。

門外不出の「火入れ」流儀

 さて、主題は醤油である。店には味噌、醤油、麹、甘酒などが並んでいるが、代表商品は「ヤマブン本醸造特選醤油」。これこそが、この5年間で4度の日本一に輝いた醤油だ。2013、14、16、17年の「全国醤油品評会」で最高賞の「農林水産大臣賞」を受賞した。といっても、ラベルに派手さはない。橙色の地に墨書体で商品名が書いてあり、質実な地方色が滲む。

 読者の皆さんは、醤油の製法をご存じだろうか。まず主原料の大豆を蒸し、これに煎って砕いた小麦、麹菌を混ぜ合わせ、塩、水を加えて発酵させる。これを「もろ味」と言い、1年余り発酵、撹拌を続けて熟成し、醤油の味や色、香りが増した頃、搾りを掛ける。そうして生まれるのが、醤油の元になる「生揚げ」(きあげ)だ。

 この時点ではまだ麹菌が生きていて、発酵を続けている。そして、この生揚げに熱を加えることで発酵を止め、醤油の風味などを決める最後の作業が「火入れ」である。

「火入れは醤油づくりの命であり、醸造元ならではの個性を引き出します。うちは蒸気で加熱しますが、そのタイミング、適温、加熱時間、冷却時間などは、代々、門外不出。全国に醸造元は約1300ありますが、火入れの流儀も1300通り」

 醤油の魅力は「食欲をそそる香り」「鮮やかな赤み、つや」「後味の良い風味」であり、そのバランスの絶妙さだと、渡辺さんは語る。「1つでも欠けたらダメですが、とりわけ大事なのが香り。日本料理は、『醤油の香りで料理を食べる』と言われるほどですからね」。

 それでは、ヤマブンの個性とは何か。筆者の郷里でもある相馬は、遠浅の砂地の浜で捕れるカレイの煮付け、ヒラメの刺身、ほっき貝の天ぷらなどが名物。この昔ながらの家庭料理、古里の味に最も合い、相馬の魚介のうまみを引き出すよう、ヤマブンの醤油は造られてきたという。

 店の裏手にある古い醸造所に近づくにつれ、濃厚な醤油の香りが満ちてくる。モダンな機械類の中心にある背の高いタンクに、火入れして2日経った醤油が、6石(600升・重さにして約1トン)入っていた。「瓶に詰め始めるのは来週です」と、渡辺さんはタンクの縁に登り、とろりとたゆたう奥深く赤い醤油を、長い櫂棒(かいぼう)で撹拌した。

老舗の看板を守りつつ挑戦した先代

 もともと渡辺さんは、地元の大東銀行(本店・郡山市)の行員で、2001年に山形屋商店3代目の正雄さんの3女・文江さん(58)と結婚し、婿入りした。当時は健在だった正雄さんに見込まれ、その3年前に急死した文江さんの先夫である4代目・康司さんの後継を託された。

 だが、特別扱いは一切、されなかったという。「店主自ら造るべし」という家訓の通り、ゼロから醤油造りの技を仕込まれ、2012年に正雄さんが亡くなるまで修業を続けた。

「朝一番に起きて、その日の仕事の段取りや準備をする修業の毎日でした。醸造の長い歴史を体に染みこませる11年間だった。冬の真っ暗な朝は辛かったけれど、こういうものだと思っていましたからね。最後の1年は、商家の習わしの通り、修業の『恩返し』としての丁稚(でっち)奉公をしました」

 先代の康司さんも創意と開拓の人で、亡くなる前年には相馬市内の水産加工会社とコラボし、地元の海の幸を素材にした惣菜シリーズ「相馬の海味(うみ)」を発売した。

 江戸末期から続く醸造技術を生かした漬け床に魚介類を漬け込み、ムツなどはカボス風味にすることで、素材ごとに味を引き立てた。味噌、醤油の老舗メーカーという従来のイメージを刷新しようとした康司さんの姿勢からは、山形屋商店が老舗醸造元の看板を大切にしながらも、新しい挑戦をしてきた店であることが分かる。

 銀行員から醤油造りの世界へ飛び込んだ渡辺さんが、その康司さんの後継者として真価を問われたのが、まさに東日本大震災の最中だった。

残っていた食糧を提供

 震災が発生した2011年3月11日午後2時46分のことを、渡辺さんはこう振り返る。

「午前中に火入れをした醤油が、タンクいっぱいに入っていました。そこへあの激しい地震が来て、ガラス瓶に詰めて倉庫に積んでいた出荷前の醤油1500本が崩れ、全て割れた。床は醤油の海でした」

 タンクの中の醤油も零れ、残ったのは半分ほど。辛うじてペットボトルの醤油だけが無傷だったという。

「翌日から店を開けて片付けを始めましたが、終わるまで20日もかかりました。その間、電話は止まり、心配して様子を見に来てくれた人たちに、『うちは大丈夫だから、何かあれば相談してください』と声を掛けていると、若い女性が打ちひしがれた顔で『コメを分けてもらえませんか』と言う。コメは味噌の材料として残っていたので、当面食べられる分をあげました。その一方で、『食べなさい』と野菜を差し出してくれた男性もいました」

 店から4キロほど離れた浜の漁港や集落はことごとく津波で壊滅し、避難所はどこも被災者で溢れた。

「相馬の市役所からも、『救援物資が必要だ。出してもらえないか』と店に要請があり、無事だった醤油や味噌、コメ、塩、砂糖などを『炊き出しに使ってほしい』と提供しました。もう、自分たちの商売どころではなかったし、地元で150年以上も生きてきた店の役目、生き方だと思っていた」

醤油醸造元を救った「福島式」

 震災の翌日には、相馬市から約45キロ南にある東京電力福島第1原発で原子炉の爆発事故が起こり、事態は一気に深刻化した。相馬市には政府の避難勧告は出されなかったもの、周りで自主避難をする人たちも出始めたという。

 渡辺さんは先行きが分からない不安の中、従業員たちに給料を渡し、「これから避難して、1カ月したら連絡してほしい」と言って家に帰した。正雄さんら両親と妻、自分が残った他、営業担当の親戚が3週間一緒にいた。

「屋根の瓦は割れ、ぐし(棟木)も崩れていた。でも、醤油の醸造所が無事だったのが救いだった」

 おかげで、震災から1カ月後、避難先から戻った従業員たちは、醤油の生産と販売を再開できた。

 東北の被災地では、酒蔵の多くが再起に時間を要したが、福島県内の醤油の醸造所に限っては、避難指示区域を除いて生産再開が早かった。その秘密が「福島方式」と呼ばれる「生揚げ共同生産」だった。

 県醤油醸造協同組合(現在63社が加盟)は1964年から全国に先駆け、醤油のベースである生揚げを二本松市の工場で一括生産し、組合員である各地の醸造元に供給している。「もろ味づくりから生揚げまでの時間と設備を要する作業を共同化し、品質の安定した生揚げを供給することで、地域の零細な醸造元も醤油造りを続けられます。県全体のレベルが底上げするだけでなく、各醸造元は火入れの技に力を入れて個性を磨ける。先見の明が震災で証明されました」

 在庫商品の販売で事業再開後の急場をしのいだ山形商店は、やがて軌道に乗った。相馬市内の旅館、料理店からの注文は一時途絶えたが、5、6カ月すると「以前のような料理の味が決まらない」「煮魚につやがでない」と、「ヤマブン」に戻ってきてくれた。

「震災後しばらく、『福島を応援しよう』という機運が全国で盛り上がったこともあり、遠来の注文も寄せられて、売り上げが落ちなかった」

 だが、順調に進むかに思えた福島産醤油の復興は行き詰った。(⦅下⦆につづく)

寺島英弥
ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。

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Foresight 2018年6月30日掲載

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