戻ってきた“ノーベル賞に最も近い日本人” がん医学権威「世界のナカムラ」が祖国に絶望したワケ

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ネイチャーが報じた〈日本に見切りをつける〉

 だが、この発言をしたわずか9カ月後、中村は辞表を提出。「日本独特の壁」を壊すつもりが、逆に返り討ちにあってしまったのだ。

「中村氏の起用は、自民党政権時と異なる改革路線をアピールしたかった仙谷由人官房長官(当時)の仕掛け。ただ、他の民主党の政策と同じく、聞こえのいいスローガンのみで霞が関や業界への根回しなど一切やっていなかった。そこで、後ろ盾の仙谷氏が官房長官を辞めると、推進室の会議を各省庁の幹部がこぞってボイコットするなど露骨な“中村おろし”が始まった」(全国紙記者)

 当時の中村はマスコミにこう明かしている。

「司令塔のはずなのに、実際にできることは、各省庁に政策の助言をすることぐらいだった。予算などの権限が与えられていないためだ。気がつくと、各省庁が財務省と個別に予算交渉をして、政策を進めていた。自分は、室長という名の単なるお飾りなのだと思い知らされた」(12年1月28日付読売新聞)

 このまま日本で「お飾り」に甘んじていても、誰も救えない。中村が退任を申し出て、研究環境の整ったシカゴ大学の教授となったのは、当然といえば当然の選択だった。

 中村の「日本脱出」は世界の医学界でも驚きをもって伝えられ、英国の科学雑誌「ネイチャー」(同年2月号)は「Genomics ace quits Japan」(ゲノム研究のエース、日本に見切りをつける)と報じた。ただ、中村からすれば日本を諦めたつもりなど毛頭なかった。著書『これでいいのか、日本のがん医療』(新潮社)に当時の心境が綴られている。

「日本を愛しているからこそ、あえて米国へ行くということです。現在の日本の医療体制では、患者さんに新しい薬を届けるのは難しい。ならば、環境が整っている米国で、もうひと勝負したいと考えたのです」

 勝負。これこそが今夏、中村が日本へ戻る目的だ。

(下)へつづく

(文中敬称略)

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窪田順生(くぼた・まさき) 1974年生まれ。雑誌記者、新聞記者を経てフリーランスに。事件をはじめ現代世相を幅広く取材。『「愛国」という名の亡国論』(さくら舎)等の著書がある。

週刊新潮 2018年6月21日号掲載

特集「『超早期発見』と『最新免疫療法』 『ノーベル賞に最も近い異端児』が切り拓く『がんゲノム医療』――窪田順生(ノンフィクション・ライター)」より

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